タクミシネマ                  お日柄もよくご愁傷さま

 お日柄もよく ご愁傷さま     和泉聖治監督

 初めて仲人をする前日、娘が臨月のお腹を抱えて、実家へ帰ってくる。
夫の浮気を怒って実家へ帰る、こういう行動をとる女性とは、生活力がなく何と惨めな女だろう。
男なら妻の浮気を怒って実家には帰れないのに。
そしてその当日、祖父が倒れ死亡する。
仲人を終わるも、せわしなく通夜の席。
葬式の席で、長女が陣痛、出産。

 家族を問直す、今日的なテーマである。
今日的な主題をつかみながら、家族の役割に意味性を見つけても、家族が今後どのような展開を見せるのか、この監督には判ってないから、実に歯切れの悪い話になる。

 わが国の場合、農耕社会の家族形態をいまだ引きずっている。
だから、どうしても古き良き家族の大切さを見直そうという結論になりがちである。
この映画でも、親よりも若い娘たちのほうに、より強く家族へ感情移入させる。
しかしこの監督は、今までの家族には懐疑的ではあるので、家族を賛美はしない。
この映画の主題は、あくまで家族を見直すに尽きる。

 仲人に出かける朝、祖父が死んでいる。
子供たちは通夜・葬式を優先し、結婚式にいかないように主張する。
しかし、橋爪は仲人にいく。橋爪功演じるお父さんの選択は、まったく正しい。
死んでしまった人間には、誰がいても詮方ないことである。
結婚式に仲人が欠席すればどうなるか、仲人は行かなければならない。
通夜・葬式は日時の設定が動かせる。
それに葬式は、意外に暇もあるものである。

 お父さんは、お爺さんが大雪山へ行くことも、娘が男とグアムへ行くことも知らない。
お爺さんは娘のグアム行きも知っているし、ゲートボールの仲間はお爺さんの大雪山行きも知っている。
誰も、お父さんに言わないのは、反対されるのが明白だからだという。
それは当然だろう。

 責任を負わされたと感じている人間は、結果起きることに臆病にならざるを得ない。
しかし、責任を負わされた人間が反対することは、自由の芽を積むことである。
工業社会に入ってからいままで、父親は子供を規制し、叱咤激励するものだった。
だから工業社会の父親には誰も心を開かない。

 わが国ではまだ、子供は親の所有物であるという、農耕社会の理念が生きている。
そのうえ、保護下にある人間が失敗したとき、まわりがその保護者をたたきすぎる。
監督責任を厳しく追及するから、監督者は恐くて何もできない。
相談されれば、何でも反対ということにならざるを得ない。
橋爪功のお父さんの対応は、わが国ではまったく普通の対応だが、それが個人の自由をついばんでしまうこと、つまり、個人の責任を追及する風土を生まない原因だろう。

 大学生の女の子が、男の子とグアムへ行くと言ったとき、金も出さないが反対もしない。
むしろ、金は出さないが口では賛成する姿勢が必要なのであろう。
老人が大雪山へ行って万が一死んでも、死体の引き取りだけに行けばいいのであって、現地で荼毘に付し骨だけを持って帰ればいい。
だから、老人の山行きに反対する理由は何もない。

 現存の冠婚葬祭は、これからの社会に対応できなくなっている。
冠はすでにない。婚はいまだに大勢の人を集めて派手にやるが、それは農耕社会の名残である。
今後、結婚はきわめて個人的なものになる。
何しろ、単家族が基本だから、結婚式自体が内輪なものになって行く。

 葬も、大家族や核家族が基本ではなくなるので、もっと小規模なものになる。
祭は、もはや農村共同体が崩壊したので、それを支えるものがない。
今や商業資本が、祭を演出するのみである。
今後、祭は商業資本が主催するものに、クラブのような形で参加するようになる。

 農耕社会にあって、冠婚葬祭は一種の保険だった。
冠婚葬祭は義理の掛け合いで、相互扶助の役割を持っていたが、すでにその役目は終わった。
情報社会では、現金によって保険をかける。
義理の掛け合いではなく、自分で保険をかけるかたちが主流になる。
それが判っていれば、家族の役割はきわめて個人的な場所でしかなくなる。
大学生のように大人になった人間が、いつまでも親に養われているのが異常である。

 家族を問い直す動きは、これからますます活発化するだろうが、資本側と主婦のランデヴーによって、家庭の大切さが声高く訴えられるだろう。
個人単位の家族になれば、家族の破綻はすべて社会が補償せねばならない。
単家族は社会的なコストがかかるから、資本側は単家族にしたくないし、主婦は単家族になったら生活できないから、核家族にしがみつかざるを得ない。
単家族になっても生活できるのは男性だけなのだが、男性から核家族を破壊することは言い出しづらい。
そうは言ってもしばらくすると、男性から結婚を忌避する動きが出てくるだろう。
それが、核家族の解体の始まりだろう。

 橋爪功、吉行和子、松村達雄、歳のいった役者たちは上手い。
きちんと演技している。しかし、若い役者たちの下手なこと、目をおおうばかりである。
娘役をやった女の子など、ただの棒読みである。
技術の上で、若い人を甘やかしてはいけない。
それは決して若い人のためにはならないから。

 映画としてみると、残念ながら、及第点はつかない。その理由は、
1.無音の場面が多すぎる。
2.三度もコスモスを写す無駄。
3.カメラ アングルの不自然さ。
4.大雪山での、ラブシーンは蛇足。
5.音楽が有効に使われてない。
厳しい採点かも知れないが、おもしろいテーマを見つけながら、うまい役者たちをそろえながら、もったいないと思う。

 この映画の最大の問題は、家族をテーマにしながら、家族をどう扱うかに、明確な方針が打ち出せなかったことである。
旧来の家族を大切にするのか、家族の崩壊を許容するのか、どちらかはっきり割り切ったほうが、より主張が明確になった。
たとえ、その結論が非常識であっても、問題提起の映画として感動的だった。
1996年日本映画。


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