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イヴの秘かな憂鬱   スーザン・ストライトフェルド監督

 女性が時代と格闘するのを、きわめて論理的に表現している。
その試行錯誤の軌跡が、画面にえんえんと展開され、見る方はいささか疲れる。
しかし、女性としては先鋭的な作業を、多くの女性監督が少しづつ積み重ねてこそ、女性の解放が本物になるのである。
こうした疲れる作業に、今後しばらくは、男性も付き合って行かざるを得ないだろう。

 一般に女性は論理的な思考が不得手で、直感とか感性とか体感と言った認識方法に頼りやすい。
直感的な認識方法は、もっとも初歩的なもので、個人的なレベルにとどまらざるを得ない。
感覚的な認識が出発点ではあるが、感覚はあくまで個人的なもので、体験に裏打ちされたものである。
そのため、感覚は個人的な体験を出ることは出来ず、必然的に感覚を他人が共有することは出来ない。
同じ体験をした人間が、かろうじて錯覚に近い形で、感覚を共有するのみである。
直感が感覚とか感性でとどまっている限り、異なった体験を持つ他人との間に理解の道は開けない。
つまり、認識が広がる契機がない。

 女性たちは、生理とか出産とかといった女性特有の感覚を持って、女性の連帯を作ろうとした。
しかし、それでは動物的な次元にとどまるだけで、社会性を獲得できない。
感覚や感性から論理と言った次元まで認識を上げてこそ、他人の異なった体験の間にも、相互の理解が成り立つのである。
この映画のように差し出してくれれば、女性の問題が男性にも理解可能である。

 イヴ(ティルダ・スウィントン)という検察官は出世してきたが、いま判事になれるかどうかのところにいる。
判事と言えば、法曹界では、最高の出世である。
しかし、彼女は年齢から来る容姿の衰え、自分の性的な嗜好への不安にさいなまれている。
男性は職業生活と家庭生活が両立しており、どんなに出世しても家庭での性生活はあって当然と見られる。
それに対して女性は、職場でも性的動物と見られたり、反対に性の世界はないと勘違いされる。

 イヴには恋人がおり、セックスも充分に楽しんでいる。
にもかかわらず、精神的な安定がない。
今までは主婦の自立が主題だったから、すでに性的な世界は内面化し終わって、女性は社会にでることが出来た。
歳のいった既婚女性は、男性を挑発できる若くて魅力的な肉体を失ったとみなされ、性の世界を持っても特別視されない。
しかし、魅力的な未婚女性は何歳になっても、性的な世界を知らないように期待される。
そして同時に男性なら、誰でも受け入れるように期待される。
「クレーマー、クレーマー」から20年、大学を卒業して働き続けた女性たちが、悩みを持ち始める時代である。
女性には社会的な存在としての先例がないので、多くの働く女性は寄るべきものがない。

 この映画で、イヴがやった性的な行為は、まったく異常なものではない。
ベッド以外でのセックスは誰でもするし、男性から見た映画では、この程度は当たり前にでてくる話である。
またゲイやバイセクシャルにしても、今や何ら不自然ではない。
当人たちが楽しんでいるのなら、いっこうに構わないことでる。
にもかかわらず、彼女は自分を肯定し、自己存在を正当化できない。
仕事の上では、誰よりも成功していながら、秘された部分での精神的な安定がないので、人格が大きくふれてしまう。
人間が社会的な動物な所以である。

 イヴ自身も、一度自分の体に傷を付けるが、メキシコかインディアンとの混血と思われる少女が、大人の間におかれて自己確立に悩む姿が痛々しい。
彼女は経血を地面に埋め続け、そして自分の体を剃刀で傷つける。
社会的な存在としての女性の見本がないので、女性たちは職業生活で成功しても、それでも性的な人間としては不安である。
どんなに出世しても、性的な部分での欠損感から抜けだせない。
それは職業生活で評価されれば、自動的に性的にも認められる男性とは、違う世界に生きてきたので、やむを得ない。

 女性は、生物としての部分と社会的な部分を両立させることに、とまどっている。
女性が仕事をすることは、当然だと思うようにはなった。
しかし、性的にも女性的に魅力的でありたいと思っているから、それはどうしても既存の男性迎合的な女性像に自分をはめ込むことになる。
職業人としての魅力が、そのまま性的な魅力でもある男性像とは、女性の場合は大いに異なる。
女性にあっては、職業人としての魅力がそのまま性的な魅力にならない。
むしろ、仕事で能力を発揮すると、非性的な存在に押しやられて、男性からは敬遠されさえする。

 女性が二つの魅力を、統一させることが出来ない限り、イヴの秘かな憂鬱は続く。
美人だったり、スタイルが良かったりといった価値を、女性が職業人としての魅力にどう消化して行くのだろう。
美人であることと職業人としての能力は関係ないが、容姿は美しく有りたいとは誰でも思ってしまう。
スーザン・ストライトフェルドという女性監督が、まじめに取り組んだこの映画は、女性にとっての困難な作業の入り口である。

 観念をそのまま展開したので、映画としては上出来とは言えない。
まず、イヴの職業人としての現実味が薄い。
有能な職業人があんな勤務態度であるはずがないし、職業上の現実味を欠いたところでは、彼女の悩みが単に興味本位に流れる。
とりわけ性的な部分を強調すればするほど、仕事への不信感がでてくる。
判事になるために知事の面接を受けるが、その時に独身の理由を聞かれるが、観客にはその質問が当然に聞こえてしまう。
能力があったので出世したが、まだ力を出し切ってないのだろう。
と言うより、ああした職務態度では、男性に限らずどんな美人であっても出世できはしない。
職業が人間を鍛えるのではないだろうか。1996年のアメリカ映画
原題は、「Female Perversions」


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