タクミシネマ                   革命の子供たち

 革命の子供たち    ピーター・ダンカン監督  

 オーストラリアという国は新興国だから、もっと素朴で豪放磊落かと思ったけれど、こんなに複雑で成熟した映画が出来るなんて、驚いた。
思考のスタンスは、完全にヨーロッパ人と同じである。
流刑の地オーストラリアには、文学がないと思っていたので、極め付きの純文学に出会ったようで、オーストラリア人もなかなか見捨てたものではないと、彼らを見直した。

 時は1951年、第二時世界大戦も終わったが、資本主義は富を偏在させ、働いても食えない人と不労収入者とに、ますます分けている。
オーストラリアの一女性ジョーン(ジュディ・デイビス)は、腐敗した世の中を嘆く正義感あふれる共産主義者である。

 資本主義諸国の混乱をよそ目に、戦勝国側だったソ連は、着実に社会改革を進めているように見えた。
西側の革命家にとっては、スターリンはチャーチルやルーズベルト以上のスターだった。
彼の死後、スターリン批判が出ることなど想像もせず、彼女は熱烈なスターリン信奉者だった。
ファンレターを送り続けた彼女に、ある日スターリンから招待状が届く。

 
劇場パンフレットから

 モスクワに行った彼女は歓待されたあげく、スターリンの子供を身ごもって帰国する。
幼なじみの男性ウエルチ(ジェフリー・ラッシュ)と結婚し、ジョーを出産。
成人した彼は、母親の思想的な影響を受け、ベトナム反戦、兵役拒否にて収監される。
そこで、政治的アジテーターの資質に目覚めた彼は、待遇改善を要求し、ハンガーストライキを決行。
それに勝利する。
刑務所の爆発の時、看守を助けたことから一躍注目を浴びるようになり、政治の世界に踊り出す。
父親であるスターリンの血がなせる技か、ファシストの路線を突っ走る。

 ジョーは女性警察官のアンナ(レイチェル・グリフィス)と結婚するが、それは母親の教育のためである。
警察官という権力側の人間が大嫌いという、母親の思想的な信条の反語的な表現としての結婚であり、この挿話は思想か生活かをちらっと見せている。
アンナは、普通の家庭生活が良いと言うが、それがイデオロギーの上に成り立っていることが判らず、ジョーンをいらだたせる。

 息子が権力に近づきはじめたので、そのまま走ると、ファッシズム化することを恐れた母親は、出生の秘密を公表する。
そのために彼の人気はたちまち消滅するが、母親は何者かによって射殺される。
犯人が刑務所時代の知り合いだったことから、母親を暗殺したのではとの嫌疑を掛けられ、再度の取調中で映画は終わる。

 第二時世界大戦以降、ヨーロッパの西側諸国はどこも戦後の不況にあえいでおり、ソ連の動向がまぶしかった。
1950年アメリカはソ連の影響を恐れて、マッカラン法を制定し、以後4年にわたり赤狩りに乗り出す。
正義感に燃える人たちは、計画経済のソ連に未来を託した。

 今でこそ、ソ連の失敗が取りざたされているが、当時は人類愛に敏感な人ほど、ソ連に入れ込んだはずである。
その典型例としてジョーンだが、彼女は共産主義を信じていた。
時代が下って、レーニン像が倒されることは断腸の思いだし、ゴルバチョフの改革は共産主義の冒涜とうつる。
レーガンとの会談は、共産主義が資本主義の僕に成り下がった姿とうつる。

 現代の日本では、もはやソ連を信奉する人はいないし、そんな人はピエロ扱いである。
しかし、思想を信じると言うことは、このジョーンが正しいだろう。
移ろいやすく権力闘争の政治的な状況によってではなく、信念としての思想や主義に準じる姿が、正しいのだと言っているようだ。

 確かに、彼女の共産主義を支えた理念は博愛だったし、そのための共産主義だった。
博愛にたつ彼女は、ベトナム反戦にも同じスタンスで参加するし、ファッショ化した息子にも同じ考えから反対する。
反体制的な思想を持つ人は、博愛主義であることが多いが、狂信的な信心は結果としては非人間的な現象を生じさせた。

 思想は状況を越えて、ある時はソ連的な現れを見せ、ある時は反ベトナムや息子の暴走を止める形で現れる。
共産主義を信奉しなかったオーストラリアの多くの人が、ジョーの政治行動に賛成し、ジョーの官僚粛清を支持した。
しかし社会が、ソ連と同じ様相を呈し始めたとき、それを止めるのはやはり人類愛に燃えるジョーンである。
共産主義という思想が、大きな失敗をさせたが、人類を何とか歩かせているのも、また思想である。

 生活の幅は政治の幅より広いとは、埴谷雄高の言葉らしいが、当然のことながら思想の幅も生活の幅よりも狭い。
人は思想だけで生きることは出来なが、パンだけで生きることもできない。
ジョーンの思想は、いつも時代から浮いて、今やピエロだし化石だが、ピーター・ダンカン監督は、決してそう単純には見ない。

 30年連れ添った旦那のウエルチは、ジョーンとの日々の具体的な積み重ねが、スターリンの思想以上に強いのだと、確信していた。
しかし、ジョーがスターリンの子供かも知れないと聞かされたとき、思想に負けたと彼女のもとを去っていく。
ここは二重の意味で皮肉である。 

 状況の変化に応じて、変転する人たちを冷静に、しかも人間愛にもとづいて、ダンカン監督は人間を見ている。
この映画は人間の様々な面を、決して否定することなく冷静に掘り下げ、思想が単純に動くわけでも、政治が単純に動くわけでもないことを画面に見せる。
タイトルが「革命の子供たち」というように、子供が複数になっていることは、監督は単にジョーンやジョーの個人的な話として考えているのではないことを物語る。

 共産主義を扱ったので、結果としてシニカルに見えるが、監督は人間を皮肉るつもりはないだろう。
むしろ矛盾した人間を、認めているように感じた。
思いついたアイディアを充分に練って、主題をきちんと発酵させ、難しい展開を実に丁寧に追っている。

 人物を中心から外した画面構成が、対話しているもう一方の見えない人物を感じさせ、会話の連続性を生み出している。
次への場面転換へとつなげるのが上手く、映像的にも力のある監督だと思わせた。
小劇場での上映だから、画面が大きくなった時にどうかと言った感じは残るが、画面の使い方が上手く、密度の高い画面構成だった。
また、役者たちの老け作りが上手く、特にジョーンは出色だった。

 映画はその国の経済的、文化的な背景によって作られる。
文化のないところには、文化的な映画は出来ない。
とすれば、この映画が作れれたオーストラリアの文化度は、きわめて高いと言わなければならない。
複雑な人間を描けるのは成熟した文化国の特権で、その意味では高い文化を持った映画だったし、これが出来たオーストラリアは高度な文化国家である。

1996年のオーストラリア映画


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