タクミシネマ         天使の涙

 天使の涙        ウォン・カーウァイ監督 

 香港の映画で、原題は「堕落天使」である。
英語では、falling angelなのだが、それがなぜ、天使の涙になるのであろうか。
香港映画は撮影の前に脚本が出来ているのか、不安になるときがある。
たとえ出来ていても、撮影現場でどんどん変わってしまうのではないか。
ひょっとするとこの映画は、きちんとした脚本はなしに、大まかなコンテだけで作られたのではないか。
構成が弱い。

 話は、殺し屋を職業とする若い男と、そのパートナーと称する若い女性とのからみから始まる。
パートナーの女性から指示を受けて、殺しに行く。
どこで、誰を殺すか、指示どおりに仕事をするだけで、彼の判断を入れる余地はない。

 この男女間には、微妙な精神的な関係はあっても、肉体関係はない。
パートナーの女性が、美人でスタイル抜群。
しかし、彼女には男性はおらず、もっぱらマスターベーションをするだけである。
そのシーンが何度もあるが、それで何を言いたいのか不明である。

 殺人を繰り返しているうちに、彼は殺し屋稼業を辞めたくなる。
ここからよく判らないのだが、オシの若い男性と、気が狂った女性がが登場してくる。
オシの男性の父親は台湾出身で、現在は重慶旅館(ジャンキー マンションのことだと思う)の受付をやっている。
彼はそこの一室で、父親と同じベットに寝起きしているが、正業には付いていない。

 夜閉まった店を勝手に開いて、自分は店主と言っている。
他人の店を開けるのだから、それは犯罪である。
それがばれて、刑務所に入っていたのが脱走してきた。
もう一人の女性は、つきあっていた男性に女友達を紹介したところ、その女性に男性を寝とられてしまう。
挙げ句の果てに、結婚式の介添えをつとめて欲しいと言われ、脳天に血が上り切れてしまう。
それからはめちゃくちゃな行動ばかり。

 この映画はストーリーを追って、主題を云々するより、現在の香港の若者の感覚を味わうものなのだろう。
論理がないという意味では、日本との共通点を感じる。
西欧とくにアメリカ以外の国では、論理を展開することが困難な状況である。

 論理の構築とは個人的な作業だから、個人の確立が遅れている後進国の論理は、すでに先進国で見たものばかりになる。
日本を含めた後進国では、虐げられてマイナーな者の悲哀か、反体制もしくは体制翼賛的な主題になりがちである。
後進国で新たな論理、時代を切り開く論理を作ることは、非常に困難である。
だから後進国の映画は、論理ではなく共感に訴えざるを得ない。

 共感は体験を共有する中で生まれる。
同じ体験をしない者には、共感を持ちようがない。
共感だけで成立する映画は、地方性しかなく世界性を持たない。
広角レンズを使った画面は、押しつけがましい。
もっと丁寧に訴えたいことを、論理的に積み重ねて、映画をつくるべきである。
訴えたいことを、自らのなかで、きちんと論理化する作業をするべきだろう。
そのためにも、きちんとした脚本が必要である。
1995年香港映画


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