タクミシネマ         ナッシング・パーソナル

 ☆ ナッシング パーソナル
 サディアス・オサリヴァン監督

 我が国の政府やマスコミは、国際政治に対する自分自身の判断基準を持っていない。
現状が正義で、それに反対する者は悪者という思考から抜け出せない。
だから、外国の情報は極めて片寄ってしか、国内では接することが出来ない。
その多くは、体制側の見方に基づいたものである。

 例えば北アイルランドの紛争にしても、IRAの活動が否定的に取り上げられ、しかも、それはイギリス側からの情報が多い。
必然的に、爆弾を仕掛けるIRAは、悪いテロリストになる。
北アイルランド紛争と呼ぶこと自体が、イギリス側の見方である。

 権力側は支配機構をもっているから、暴力に訴えなくても、支配の意志が実現できる。
反対側はその意志を実現するためには、暴力の行使を否定できない。
暴力だけに限定すれば、支配側は非暴力を訴えるはずだし、反乱側を暴力集団と規定する。
反対側は、無関係な人々を暴力に巻き込む破壊集団ということになる。
北アイルランド紛争はイギリス側に非があると思うが、暴力反対のイギリス側のキャンペーンに北アイルランドの主張はかき消され、IRAは悪者にされる。

 IRAは、イギリスからの独立戦争を戦っているのであり、北アイルランド紛争は独立戦争なのだ。
権力を握るまでは、誰でも反乱軍である。
しかし、一度権力を握ると、支配の正当性が発生し、国際社会でも認知されて、国連でも議席を占めるようになる。
元来が、権力側と反乱側には本質的な違いはない。

 ところが我が国では、どんな国家もその初めは暴力で自らを確立したにもかかわらず、権力側を正義だと無条件に認め、反対側は悪とみなしがちである。
我が国も明治維新という暴力革命によって、明治政府を樹立したことは忘れ去られている。
現在の政府とて、その初めは暴力によって確立されたのである。

 宗教という個人的なことでありながら、それが戦争まで発展すると、何事も個人的なことではなくなる。
個人的な怨みで殺すわけではない。
それでいながら、その結末は個人の上に襲いかかり、個人が犠牲を引き受ける。
この映画は、1975年頃の北アイルランドにおける独立抗争をにらみながら、プロテスタントとカソリックの抗争なかで、日常的に使われる暴力が、人間性をついばんでいく様子を描いている。
両者は一つ穴の狢と認めながら、T・オサリヴァン監督はむしろ体制側のプロテスタントの腐敗を描く。

劇場パンフレットから

 反体制側は、独立とか解放という自己実現の目的があるから、禁欲的に戦うことが可能である。
しかし、体制側は体制であるがゆえに、精神的な目標が維持できず腐敗しやすい。
独立を封じ込めるために戦いながら、日常のなかに暴力があるので、体制側の兵士は暴力の中毒に感染する。
この映画でも、プロテスタントの兵士ジンジャー(イアン・ハート)が暴力の中毒になり、暴力の刺激を求めて暴走し始める。
組織にとっては跳ね上がり分子として、厄介な存在にすらなる。
そこで組織の長レナード(マイケル・ガンボン)は、彼を始末するように下士官ケニー(ジェイムス・フレイン)に命令を出すが、ケニーは情に溺れて自分の部下を始末できない。

 何事も個人的でないにもかかわらず、結局すべては個人的な事柄としてある。
人のいいレニーは、暴力に溺れるジンジャーを、始末できないまま日時が過ぎる。
組織の行動から逸脱しがちなジンジャーを残すことは、全体のためにはマイナスだと判断される。
そこで、組織が彼を消す決意をする。
ケニーの上官であるレナードがイギリス軍に手をまわし、イギリス正規軍によってケニーを含めて殺してしまう。
結局、優柔不断がケニーの命取りとなり、より大きな犠牲を出すことになる。

 冬の湿った夜の場面が多く、濡れた道路が月に反射して幻想的で美しい。
ロケ地は、ベルファーストではなくダブリンだというが、同じ小さな街角をあちらから、こちらからと様々に方向を変えて撮影している。
それによって、同じ町内の戦いであることがわかる。
ライティングもうまく、カット割で両者の町並みを表現していたカメラがいい。
外出禁止令のでている夜間、人通りの絶えた寂しい街と暖かい室内の対比が鋭い。

 敵も味方も同じ言葉を話し、同じ服装で、同じ町並みに生活している。
宗教だけが違うために戦う北アイルランドとイギリス。
戦争のあいだにも人間は生きており、敵意もあるが愛情も同時に存在する様相を、サディアス・オサリバン監督は友情、恋愛、家族愛、子供の無垢な行動などで示す。
北アイルランドでの戦争が、個人的でないのに個人的であり、個人的でありながら個人的でない、という主題はいいとしても、暴力に子供に代表される純粋な愛情を対置するのは次元が違う。
政治を文学的に語ることは、農耕社会的である。
このあたりは、ややセンチメンタルに流れている。

 神はとっくに死んでいるのに、北アイルランドはカソリックという教団宗教から脱出できないから、工業化から取り残されている。
イギリスとの戦争の理は北アイルランド側にあると思うが、カソリックを信じる限り、北アイルランドは後進性から抜け出せないだろう。
映画のなかでも言っていたように、カソリック側のリアム(ジョン・リンチ)もプロテスタント側のアン(マリア・ドイル・ケネディ)も、いまや熱心な信者ではない。
工業化の進展によって、北アイルランドでも宗教心は消滅するだろう。
ところで、神様に護られて心が幸福で貧しい社会と、豊かだが神様のいない社会では、人間はどちらが幸せなのだろう。

1995年のアイルランド・イギリス映画


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