タクミシネマ          愛のお話

愛のお話   トリン・T・ミンハ監督

 アメリカに住むベトナム女性キュウの話である。
写真のモデルや物書きで生活している女性に、ベトナムの伝統的な話に登場する女性キュウを重ねて、先進国に生活する第三世界の女性の立場を描いている。
主人公が30歳という設定だが、多くのアメリカ映画と反対にとても若く見え、実際には20歳半ばではないかと感じた。
映画の中では、アメリカ人にキュウを老人の声と言わせていたが、白人から見ると東洋人は若く見えるようだ。

 ベトナム戦争の戦火をのがれてアメリカに渡った彼女は、幾多の苦労をくぐり抜けてアメリカで成功した。
しかし、第三世界の人間である素性は消すことは出来ず、彼女の生活の隅々について回る。
そうした抑圧は、個人的なものではなく、人種や女性と言った属性のものとして捕らえられ、それがこの映画の主題となっている。
とりわけ、女性解放の主題が強い映画である。

前宣伝のビラ

 写真のモデルをしている彼女と、男性撮影者であるアリカンとの間で繰り広げられる見る、見られる関係が、男性と女性の立場に重ねられている。
この視点は、かつての女性運動が盛んに主張したもので、現在では女性自らが表現者となることによって突破された。
今では女性も見る立場にある。
男性支配の社会を告発することは、すでに終わり今や女性自らが当事者となる時代になっており、1995年に製作されたものとしては、この監督の視点は古い。

 ベトナム生まれの女性が監督ということで、普通の商業映画と同じように見ることが困難で、どうしても点が甘くなりがちだが、それは逆に表現者としての監督への侮蔑だろう。
映画に限らず、表現されたものは表現として優れているかどうかが問われ、作者の経歴や背景は第二次的なものである。
そうした確認をしたうえでこの映画を見ると、残念ながら低い評価とならざるを得ない。

 まず、主題が女性の抑圧された現象を描くものだが、先進国にいる第三世界の女性の問題と女性一般の問題が混在している。
本人の中で、それを同時に解こうとしているのかも知れないが、女性一般の問題としては先進国では、すでに解が出ている。
女性問題は理念的には解決され、女性が抑圧されている問題ではなく、その結果起きる子供の問題へと移っている。もちろん個々の女性にとっては、問題は何ら解決されてないかも知れないだろう。
しかし、政治的には意味があるかも知れないが、もはや表現として扱う主題ではない。
むしろ、第三世界の中でも女性が抑圧されると言うことだろう。

 途上国になればなるほど、情報化が進んでおらず、肉体労働の比重が高いはずである。
必然的にそこでは男女差別が激しいはずで、第三世界の女性は二重に抑圧されるとは言える。
しかし、それを解消するには先進国を批判することではなく、自国の中が情報社会化することである。
肉体労働の比重が下がれば、女性の劣性は無化されるので、女性差別はより軽くなる。
その構造が見えたにもかかわらず、この映画の視点では不勉強と言われても仕方ない。

 この映画の中で、自国の文化が崩壊する、たとえば目上の人を敬わないとか言っていたが、この発言自体が状況を理解していないものある。
目上を敬うことは旧来の価値体系に依拠すること、すなわち女性蔑視なのである。
土着文明にいることが、女性差別を許容しているのであり、旧来の土着文明の尊重と女性の解放は二律背反である。

 各国の独自の文化と言うが、それはそれぞれの土地に適合した生産労働の形態から生まれたものである。
労働形態が変われば、文化はそれに連れて変わるのは必然である。
先進国に浸食される第三世界だが、強国が弱小国を搾取する構造は、人類の歴史上いつの時代でも同じだろう。
自国の文化を大切にし、かつ女性が大切にされる状態が可能なら、そうした状況を提示すべきだろう。
もはや批判だけしている時代は終わった。

 映画としてみても、ストーリー展開が下手である。
終わっても良い場面を何度も迎えながら、だらだらと続いてしまった。
始まりが昼の草原であり、終盤に夜の草原が出てきたところで終わらせるべきだった。
あれも言いたいこれも言いたいのは判るが、何を主題にして、どういう展開で、どこで観客に感じて貰うかをきっちりと計算すべきである。
とりわけ、最後のキュウが大きな声を上げるシーンは余分だった。

 画風にしても、一時代前のアンダー・グラウンドのようでありながら、はち切れるような瑞々しさはない。
ただ観念が画面に羅列されているだけである。
しかもその観念が未消化で、観客に伝える形になっていない。
どんな映画も、表現であると同時に、娯楽でもあるのだから、観客を意識しない映画は独りよがりと言われても仕方ないだろう。
また、低予算映画だから仕方ないとは思うが、ライティングが不十分なため発色が悪い。
音楽に関しても、古い現代音楽であり、決して高い点は付けられない。
今時なぜ上映されるのか不思議である。

 キュウの演技に関してはいいとしても、カメラマンを演じたアリカンは不自然で、とてもカメラマンとは思えないぎこちなさだった。
まずカメラの扱いが素人である。
それに、スタジオでの撮影ならストロボを使うはずで、どうにも不自然な撮影風景だった。
こうしたディテールが荒いと、話自体の信憑性が落ちる。

 この映画の監督であるトリン・t・ミンハは1952年、ベトナムに生まれ、17歳でアメリカに渡り、イリノイ大学で比較文学を学んでいる。
現在はカリフォルニア大学の教授である。
いわば成功した立場におり、それが彼女の視点を曇らせているのかも知れない。
とりわけ、教授という利害の刺激のないところでは、自己の観念が一人歩きしがちで、社会性が切れてしまうようである。

 コマーシャルベースにのらないためか、赤坂の国際交流フォーラムでの上映だった。
才能のある監督なら、商業映画からオファーが殺到するはずで、表現の才能がないのに政治的な手腕で動いているタイプの人間なのだろう。 

1995年のアメリカ映画


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