甘ったるいタイトルなので、期待した映画ではなかったが、いろいろと考えさせることがあって、とても面白かった。
第二次世界大戦の戦勝国側にいたとはいえ、ドイツに敗北し内実は崩壊したフランスを建て直すため、アメリカ軍がフランスに大量に進駐していた。
そのアメリカ軍が持ち込んだ、新文明を扱った映画である。
「アメリカの贈り物」は原題ではなく、原題は「ヌーボー モンジュ」だから「新文明」もしくは「新しい地球」と言うことになる。
これだと映画の中身と一致する。
フランス人の子供が、幼なじみでしかも恋人同士として、まず登場する。
小学校低学年の二人は、フランス文化を捨てアメリカ文明に生きようと誓う。
そこで、自分たちのおもちゃを、全部土に埋めてしまう。
高校生になり、恋人でもある二人は、肉体関係に進んでもおかしくないが、男の子がアメリカに心を虜にされて、彼女とのセックスに気が進まなくなる。
フランスの同盟国であり、援助をしにきているにもかかわらず、アメリカは反米運動に直面する。
路上に<us go home>と、白ペンキで書いている男二人を止めた新米派の彼は、反対に怪我をさせられてしまう。
それを救ってくれたのが、アメリカ軍の軍曹である。
軍曹は彼を家に連れて帰り手当をしてくれ、以降、自分の子供ようにかわいがってくれる。
軍曹が、GI専用のミュージック ホールへ連れていってくれ、彼はそこでジャズと出会う。
たまたま、ドラマーが転籍するので、その後に彼が入る。
まったく素人の彼だが、ドラマーの才能があった。
それを認めた軍曹からドラムを貰う。
ジャズ、アメリカ、恋人、高校生(バカロレア受験)と言ったことが錯綜しながら、彼は時代に目覚めていく。
フランス人の監督が、やっと時代を正確に見ようとした。
フランスは戦後アメリカに助けられながら、自分たちの文化にはいささかの揺らぎも感じなかったので、新大陸を馬鹿にしてきた。
本当はドイツに負けたことを深刻に反省すべきであった。
そして自分たちの劣性を補うべきだった。
現在でも多くのフランス人は、フランス式生活に何の不信も持っていないだろう。
しかし今やフランスは落ち目で、アメリカとの間には、とんでもない開きが出来たことに、気づいた人がやっとでてきた。
その背景を、第二次世界大戦直後のアメリカ軍進駐まで、戻って考えたのがこの映画である。
物量がまったく違う。
PXでの物の豊富さは、とてもフランス人の考えの及ぶところではなかった。
たとえば、ジーンズ、ローファー、細々とした日用品等々。
古いものを丁寧に使うフランスの農耕文化へ、大量消費のアメリカ工業社会文明が、すさまじい勢いで流入する。
物量に圧倒されたフランスは、その影にあったアメリカ文明に気づかなかった。
表面上はアメリカ文明は、フランスには馴染まなかった。
例えば、この監督は、フルサイズのキャディラックのオープン カーが、フランスではいかにスケール アウトかを見せるが、それは決して強がりではない。
冒頭部で、少年の母親がえんえんと歩いて自宅に帰ってくるシーンが続くが、フランスの街は人間のサイズに出来ていることを示している。
馬や小さな車が、フランスの町にはあっていたのである。
映画は言う。
不潔なフランスにたいして清潔なアメリカ。人間の命を軽るんじているようでありながら、何よりも命を大切に考えているアメリカ。
物事を冷静に観察するアメリカ人。
アメリカは表向きは、幼稚な文明だったが、その先には大きな可能性を秘めていた。
それにやっと、フランス人は気がついた。
人種差別がgiのなかで蔓延しており、決してアメリカ文明は前途バラ色ではないにしろ、考え方の枠が違っていることに気づいたようだ。
この映画が取り上げている事象の一つ一つに、フランス人の反省と自信が錯綜している。
蛙を食べること、沼地で泳ぐこと、貧弱で小さな車、教会のミサなどなど、フランス人が自分を考え始めた。
イギリスに次いで科学に目覚めたフランスだったが、カソリックが残った分だけ、そして食料自給率が高い分だけ、フランス人の近代化は意外に遅れていた。
エリート層では、科学が発展したかも知れないが、フランスの庶民は農耕社会に生き続けた。
この映画が、フランス人の遅れを意識して出来たことは明らかだが、その切り口はフランス的なこだわりを見せる。
ジャズをアメリカ文明の粋として、アメリカの主流である物質文明から切り離す。
そして、それは黒人がつくったものだという。
ジャズの賛美は裏がえった人種差別だが、同じ白人しかも野蛮なアメリカの白人には、文化を持たせたくないようである。
フランス人の主人公が、アメリカ人の白人の女友達に、マイルス・デイディスのレコードをプレゼントするが、彼女は気軽に知らないと言う。
アメリカ人が知らないフランス人のアメリカ。
フランス共産党の書記長の息子が、抜群のジャズ ピアノをひくが、これがセシル・テーラーそっくり。
この息子も麻薬に溺れていくのは笑わせる。
文化はいつの時代でも、物質生産から始まるのであって、それを文明といって侮っていると、気がついたときは後進国である。
物を大量に、高品質で、しかも安く生産できることが、偉大な文明の第一歩である。
どんな文化も文化として出発するのではなく、文明の成熟が文化へと転化する。
この監督は、女性にたいしてシニカルである。
フランスの女性もアメリカの女性も、ものを考えてないかのように扱っている。
男の子が思春期に如何に生きるべきかを悩むとき、女の子はまったくあっけらかんで、ただ存在し欲望のままに行動する。
アメリカの女の子は、結婚して家庭をつくるのが夢。
フランスの男の子は、地道に自分の世界をつくろうとするが、フランスの女の子は他の世界にでて行きたいくせに、誰かが自分を連れ出してくれるのを待っているだけ。
しかも、自分の思いどおりにならないと、手首をきって自殺の真似ごとをして、まわりの人を脅す。
女は自然そのもので、思考する頭脳がないとでも言いたいようである。
幼なじみのカップルの女の子は、鈍感なフランスにだぶらせて、現在のフランスを象徴しているのであろう。
この監督はゲイなのか、男性には精神性を最大限に描き込む。
女性に対する皮肉な見方は、アメリカ的ではないが、フランス人もどうやら本物になってきた。
落ちるところまで落ちて、フランス人も本領を発揮しだすであろう。
映画そのものは、カットが長いので、テンポがのろく、けっして上出来ではない。
テーマも自己確認にしか過ぎず、今後を展望させるものは何もない。
しかし、フランスの隘路を破る可能性があると言う意味で、白眉である。
1995年のフランス映画
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