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ジュマンジ    ジョー・ジョンストン監督

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ジュマンジ [DVD]

ハラハラドキドキ、恐くもあり、おかしくもある。
もちろん、主人公たちが、死ぬことがないという、ハリウッド映画の前提によりかかって観ている。
だから恐かったり、おかしかったりですむのだけれど、実に良くできている。

 まずなによりも、この映画の発想に脱帽である。
たしかに、SFXに眼がいく。
ジャングルの動物たちが、街にあらわれたり、大洪水になったりすることが、自然のうちに処理されている。
しかし、この映画の価値はそこにだけあるのではない。

 映画は、ゲーム=ジュマンジが土に埋められるとき、つまり本題とは関係ない古い時代、たしか1868年から始まる。
そして、時はとんで1968年、主人公の少年が建築中の工事現場から、ジュマンジを発見する。
女友達とジュマンジで遊んでいるうちに「五か八がでるまで休み」を引いたために、ゲームに吸い込まれて休まされてしまう。

 その後、誰もこのゲームをしなかったので、ゲームの世界に閉じこめられ続ける。
28年後に、新たな子供がゲームを再開し、五をだしたので、主人公は現実世界に帰ることができた。
ここからが、この映画のほんとうの始まりである。

 新たな姉弟二人が、ジュマンジで遊ぶ。
何回か回がすすんだときに五をだす。
閉じこめられていた主人公の子供が、28年たったので大人になって帰ってくる。
呼び返してくれた子供たちに感謝するが、彼はまるで浦島太郎。

 ジュマンジのなかは、東南アジアのジャングルという設定である。
原始的な生活を送ってきた彼は、髭モジャで満足な洋服さえ着ていない。
ゲームを続けることに抵抗を示す彼を、子供たちが巻き込み、かっての女友達を捜しだし、嫌がる彼女をも巻き込んで、四人でゲームが再開される。

 サイコロが振られるたびに、ジャングルの超現象が現出し、彼らを襲う。
ジャングルの大型動物が大量に出現したり、大洪水が起きたり、それらが現実世界とのあいだで、ミスマッチをおこして大騒ぎになる。
大騒動が起きる前兆が、意外性をもっておもしろく表現される。

 主人公の父親が経営する靴工場の工員が、後日の警官とというのが笑わせる。
有り得ない、まさに映画のなかのことを、SFXが見事に現出させる。
SFXと実画面の馴染みは、まだ多少の難が残るが、それでも驚く。
これだけ上手くできていると、SFXが注目されるのは当然である。
しかし、SFXがどんなに優れていても、話が上手くできてないと、映画が楽しめないのは大原則である。
それゆえに、SFXに幻惑されてはいけない。

 四人のうち誰かが上がれば、現出したものはすべて消え去るルールのとおり、主人公が上がると、すべて消え去る。
しかし、この映画はここで終わらない。
今まで起きてきたことは、実は1968年にジュマンジで遊んでいた少年が、たった5分間に見た夢だったというオチがついている。

 このオチは、蛇足のような感じもするが、むしろ監督が言いたかったのは、子供が父親に感謝するこのシーンではなかったろうか。
1968年には、まだ生存しなかった姉弟が、1996年に主人公と再開するシーンは、意味深長である。

 夢からさめたら、うたかただったという話はたくさんある。
この映画はジュマンジのゲームの世界と、現実を同じものとして扱っている。
しかし気になったのは、大がかりなSFX以外にこの映画のテーマが、人間愛と家族愛であることなのだ。

 人間愛はともかくとして、家族愛は新たな形が模索されているのに、この映画では旧来の家族愛が無条件で肯定されている。
とくに子供にたいして、権威主義的な対応をしている父親を、愛情が表現できない不器用な男として肯定している。
伝わらない愛情は無に等しいのだから、ここはもう少し工夫の余地があったようにおもう。

 子供たちが観るであろう映画だから、不器用な父親でも子供への愛情を、誰よりも内に秘めているんだと言いたかった。
それは判る。
しかし、失踪した子供を捜すために、大金を使い果たし、労働意欲を失って、靴会社を倒産せたと言うのは、父親の愛情を伝えられるだろうか。

 むしろ子供には、自分の感情が押さえられない、自己中心的な男と写るように思う。
失踪する前に、なぜ優しく抱いてやらなかったのだろうか。
子供に自分の跡を継がせようと、厳しく育てること、それ自体が時代錯誤ではないだろうか。

 情報社会の現代では、この映画のなかの父親が、理想と考えているように子供が育っても、あれでは必ずいつか親子間に破綻がくる。
子供を愛する親の気持ち、それは誰しもある。
しかし、時代とずれた形で愛情が表現されるとき、むしろ愛情は裏がえって憎悪とすらなりかねない。

 1968年当時、アメリカは工業社会から情報社会に転換しつつあったはずである。
厳父はすでに、検討の対象になっていた時代である。
にもかかわらず、父親像をまったく検討せず、子供の方から全面的に歩み寄らせたのには、大いに疑問が残る。
この映画は、SFXに力点がおかれているので、その辺の人間関係の設定が安易に流れている。
良くできている映画だけに、惜しい。
それとも、単なる保守派の宣伝映画だったのだろか。
1995年アメリカ映画。


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