タクミシネマ           コピーキャット

 コピー キャット    ジョン・アミエル監督

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コピーキャット [DVD]

 猟奇的な連続殺人をするのは、20〜35才の普通の白人。
これは、シガニー・ウィーバー扮する主人公である精神分析医の、実に正確な指摘である。

 この映画のなかでは、犯人たちの手口が類型的に分類されて、それが個別の犯人と結び付けられている。
社会の多数派として生まれながら、自分の思うほどの実績を上げられない時に、精神的な抑圧が起きる。
その解消が、より弱い者に向けられるかたちで、猟奇殺人が起きる。

 強いはずの自分が、弱い者でしかないことを知り、そこから抜け出そうとして犯すのが、こうした犯行の動機である。
黒人やエスニックグループの人間は、生まれたときから少数派に属する。
そこからはい上がろうと、人生を始めざるを得ない。
だから彼らは、こうした犯罪を犯さない。
ごく普通の生活を営む白人しか、こうした犯罪の動機を持たないのである。

 「羊たちの沈黙」以来のサイコ ミステリーであるが、ストーリーの構成はいくらか似ている。
精神分析医と犯人を追う刑事という組み合わせは、アンソニー・ホプキンズがシガニー・ウィーバー、ジョディー・フォスターがホリー・ハンターといった関係か。
ともに精神分析を担当するほうは、切れている人間として登場する。

 アンソニー・ホプキンズは自分自身が殺人鬼だったし、シガニー・ウィーバーは、外出恐怖症だけではなかった。
彼女は突飛な行動や理解を絶する発言などで、警察などの上層部からは疎んじられている。
人間の尊厳である精神を分析することは、神を冒涜する行為であり、その代償として常人ではない設定となるのだろう。

 女刑事ホリー・ハンターと男性の若い刑事というコンビで話が始まるが、リーダーは女性である。
主人公の精神分析医も女性。刑事や精神分析医のなかでは、女性は少数派にもかかわらず、いまのアメリカ映画は女性を主人公にすることに特別の意欲を燃やしている。

 アメリカでも映画を作る現場では、性差別が横行しているらしいが、少なくとも映画のなかでは、もはや性による差別を語る時代ではない。
職業人としての実力が語られる時代になりつつある。
若い男性刑事が、常識人とは言えない切れかたをしているシガニー・ウィーバーに恋心を感じるとは、日本映画の恋愛物とはまったく違う。

 二人の刑事が、精神分析医シガニー・ウィーバーの助言を受けながら捜査を進める。
コンピューター時代の犯人らしく、過去の連続犯罪のコピーをすることに、執念を燃やしている。
過去の犯人たちが、内的な抑圧の解消として犯罪を重ねたのに対して、この犯人は殺人をアートつまり創造的な趣味として行う。

 過去の犯罪を正確に再現することが、犯人の美学である。
そうして始まった犯行が、精神分析医シガニー・ウィーバーの登場によって、精神分析医に正確に確認されることが犯人の快感となり、シガニー・ウィーバーとの智恵比べとなる。

 新たな犯罪の独創ではなく、コピーすることに美学を感じるというのは、コンピューターの擬人化である。
精神分析医シガニー・ウィーバーの証言によって、死刑判決を受けた過去の犯罪者はたしかに狂人的な側面を持つ。

 しかし、この犯人は獄中にいる過去の犯罪者と連絡をとりながら、現実の犯罪はそれに勝とも劣らない犯罪を犯していく。
殺人はアートであり彼の趣味なのだから、このコピーが終われば、また違う犯罪を見つけだして、コピーするに違いない。
コピーの素は無限にあるのだから、趣味に浸る世界は終わりがない。
しかも、過去の犯罪者たちのように、低い知能や粗野な風貌ではなく、きわめてスマートで優秀である。

 捕まえるほうは、マスコミという大衆社会から監視され、社会のルールを守りながらしか行動できない。
それに対して、情報時代の犯罪者は優秀なだけではなく、社会的なルールを無視できるのだ。
だから、捕まえるほうより有利な状態で犯罪にのぞめる。
警察や検察の上部は、大衆社会の眼を気にせざるを得ない立場にあるから、どうしても保守的な捜査しかできない。
結果として、犯人に振り回され続ける。

 死は物理的なもの、つまり自然科学の過程である。
しかし、具体的な人間の死は、観念として論理が確認する。
今日一般的に、学問として自然科学することは肯定されているが、自然科学それ自体は自然科学することを肯定できない。
だから、趣味としての殺人を、自然科学は肯定もしないかわりに、否定もできない。

 犯人を射殺することを、同じ論理のなかで肯定できないのである。
そのためこの映画では、相棒の男性刑事を無関係な事件で殉職させて、最後に犯人を射殺するための伏線を張らざるを得ない。
この伏線は、論理の破綻を無理矢理に繕っていることは否めず、映画のなかでも不自然に見える。

 映像美や映画の格という意味では、「セヴン」には及ばないが、良くできた映画である。
おそらく原作が、きっちりと書かれているのだろう。
過去の犯人が、まだ事件は終わってないといいながら、ストップ モーションで終わる最後のシーンは、今後の情報社会を暗示しているようで不気味である。
犯人は判っているし、主人公の二人の女性は死なないことも判っているので、安心して見ていられるのだが、それでも恐い恐い思いをしながら見た映画だった。
1995年アメリカ映画。


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