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 ベイブ     クリス・ヌーナン監督   

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ベイブ [DVD]
 アニマル・ファーマーなどのイギリスのユーモアーと、ウオルト・ディズニーの動物物の歴史を感じさせる、ほのぼのとした映画である。
なぜこの映画を作ろうと思い立ったのか、不思議である。
わが国にも鳥獣戯画などの歴史はあるし、狸や狐の話など、動物を擬人化した話はたくさんある。
我が国のアニメ映画では、動物の話がたくさん使われている。
しかし今日、わが国ではそれらの話は、なかなかインパクトを持たない。

 意欲的な映画ではあるが、この映画には明かな限界がある。
まず、アメリカらしく思われる(実際の撮影はオースラリアだそうだが)状況が、徹底した現状肯定の上に成り立っていること。
動物たちは、人間に従うことが前提されており、どんな動物も人間のために存在しているとされている。
必然的に、人間たちも、現状肯定的な役割を割り振られる。

 男性は男性の、女性は女性の、古き良き時代の役割分担である。
そうした状況を設定しないと、この映画が成り立たないので、こうした限界は仕方ないかも知れない。
動物に対する残酷なまでの人間への従属は、牧畜を主とする遊牧民に特有である。
わが国では、動物も人間と同じと考え、動物の命も人間のそれと同様に貴いものだと考える。

 ここでは、動物に対する認識の差は問わないことにしよう。
この映画の見所は、二つあると思う。
一つはいうまでもなく、動物たちの会話や演技である。
完成まで三年かけているが、動物の調教には大変な苦労があったと思う。
苦労を感じさせず、実に自然に演技しているように見える。

 成長の速い動物たちは、映画を撮っているあいだにも大きくなってしまうので、何匹も用意して撮影をしたそうな。
主人公の豚の目のまわりの毛のないところが、それまでと違って大きくなっているので、途中で不思議に思った。
しかし、四匹もの豚が使われているとは気がつかなかった。

 動物のロボットを作って、本物の動物たちのあいだに混ぜたというが、それもどれがロボットか判らなかった。
もちろん、条件反射や刷り込みなど、動物生理学を最大限に使ったことであろうが、自然に演技させていることには驚きの一言である。

 二つめは、豚というまったく下位の動物に、脚光をあてたことである。
豚は食用として品種改良されてきた動物であり、映画のなかでもいっていたように、人間に食べられることがその存在価値である。
だから、羊毛を生む羊にさえかなわない。
犬は、脅したりかみついたり走り回って、羊を追い回すが、豚には牙もないし速く走る能力もない。

 羊犬が、脅しによって羊を支配したのに対して、豚は脅しによって従属させる路線をやめ、お願い路線をとる。
路線の転換は、映画のように簡単にうまくいくものではない。
それまでも、羊を動かすのには、様々な手段が用いられてきたはずで、犬だってお願い路線も試みたはずである。
映画だからとおる話であるが、この無理な設定は理解でき不自然ではない。

 この映画作られた背景を考えるとき、やはり時代の閉塞状況があると思う。
誰にでも認められた方法、役割、担当者など、既成の価値が行き詰まっていることは明かである。
豚を見直しても、犬になるわけではないが、豚が持っている弱さが、そのまま強さへと転換していることには同感する。

 その時代を生きるのに最も適合的だった資質があるがゆえに、次の時代には没落していく。
ある時代には良かった資質が、没落へと導くのであるとすれば、逆に悪いとされる資質も検討の対象になってもいいはずである。

 ウィノナ・ライダーは、ヒッピーの両親に育てられたのだそうで、彼女の家には、お金はもちろん電気も水道もなかったそうである。
わが国では、ヒッピー文化をカウンター・カルチャーとしてとらえるが、ヒッピーとは工業社会から情報社会へと発展しようとしたときに、全人間的な復権をはかった運動だった。

 歴史の転換点では、必ず復古的な運動が表れるが、ヒッピー文化は人間性回復の運動だった。
ヒッピーが、一般の社会人のように働かなかったり、マリファナをすったり、解放的な性関係を持ったので、そうしたことが興味本意に取り上げられ、ヒッピーが持っていた文化的な意味が語られなかった。

 ヒッピー運動が最盛期だった1960〜70年代は、わが国は工業社会が高度成長の最中だったので、ヒッピー文化を理解する余裕や必要がなかった。
コンピュター文化とヒッピー文化は表裏の関係にあるのだが、わが国ではおそらく、ヒッピーのほんとうの意味はまだ判ってはいない。
コンピューターの普及によって、わが国にどんな文化が生まれるだろうか。

 動物に演技させることを除いて、映画としてみると、「ベイブ」の完成度は高くない。
しかし、映画製作者たちのまじめな熱意はよく伝わってくるし、この映画を作らざるを得ない時代的な背景も理解できる。
童話ではありふれた動物たちの擬人的な表現を、映画にしたことだけでも評価するし、優れた表現が持っている一つの条件である同時代性をも感じる。
動物映画や子供を主人公にした映画は、大人が喰われてしまうことが多いのだが、この映画では、それぞれの動物たちと人間が同じ位置関係に感じられた。
1995年アメリカ映画。


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