単家族的映画論     第2部

現代アメリカ映画における家族像について    2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
2.ゲイ映画の台頭
 同性愛を描写した映画は以前からあって、ウィリアム・ワイラー監督の「ベン・ハー」1959の騎乗シーンなどは有名である。しかし、それらは年長の男性と若い少年の同性愛であり、今日いうゲイとは違ったものである。ゲイ映画の話に入る前に、同性間の愛情表現について確認しておきたい。

 同性愛つまり少年愛は、農業が主な産業である社会ではどこにでもあり、禁止されてはいなかった。詳しくは後述するが、農業を主な産業とする社会と工業社会では、年少者に対する扱いが異なり、年少者を性的な欲求の対象とすることが許されなくなった。そのため、工業社会になってから年少者を性行為の対象とすることは、禁断の愛情とされ公言することができなくなった。必然的に同性愛の映画は、いずれもそれとなく仄めかしたに留まる。

 成人となった同性同士の愛情関係つまりゲイが社会に進出するに伴って、ジョン・ヒューストン監督「禁じられた情事の森」1967、ウィリアム・フリードキン監督「真夜中のパーティ」1970、ウィリアム・フリードキン監督「クルージング」1979、アーサー・ヒラー監督「メーキング・ラブ」1982、ジェームズ・バロウズ監督「パートナーズ」1982、リチャード・シュミーセン監督「ハーヴェイ・ミルク」1984、ヘクトール・バベンコ監督「蜘蛛女のキス」1985や、ポール・ボガード監督「トーチソング・トリロジー」1988、1920年代のシカゴでの実話に基づいたトム・ケイリン監督「恍惚」1992など、成人男性間の愛情を扱った映画は70〜80年代から撮られてはいた。

 しかし、その多くはゲイと同性愛の区別が明確ではなく、許されざる同性愛と見なしてゲイを暗く否定的に描き、映画のなかでゲイは市民権を得ているとは言えなかった。

 地味な映画ながら「蜘蛛女のキス」1985が、ウイリアム・ハートを主演にして、ヘクトール・バベンコ監督によって撮られた。この映画は、刑務所の二人部屋に収監された政治犯バレンティノと、性犯罪者モリーナの話である。バレンティノは当初、モリーナを避けていたが、次第にモリーナの優しさにふれて心を開き、二人は男性間の肉体関係を持つ。原作者はアルゼンチン人のプイグとは言え、男性の同性愛を主題とした映画が、アメリカ単独ではなくブラジルとの協同で撮影されたのである。

 農業が主な産業だった長い人類の歴史においては、より長い経験がより高い知の質を支えたから、より長く生きた人つまり老人の智恵が大切にされた。高齢者のほうが若年者より優れているという、年齢の多寡による社会の秩序ができていた。そのため、成人男性が年少者の上に立つことは、腕力に優れた男性が非力な女性の上に立つことと同様に、無前提的な常識だった。年長男性が年少者を指導するのは、誉められこそすれ決して悪いことではなかった。年長者を敬うことは、良いことだった。

 今日では知識は学校で学ぶ。しかし、学校のない時代には、知識は技術という形にかえて、直接人から人へと伝えられた。文字の役割が今日より低かった時代では、手に手をとって技術を教えた。肉体的な接触は、重要な文化の伝達方法だった。肉体関係をともなった男女の恋愛が、偉大なコミュニケーションであるように、同性間においても肉体関係をともなった恋愛が、偉大なコミュニケーションであることに変わりはない。同性間のより親密な人間関係が、肉体関係へと発展するのはまったく自然である。

 農業が主な産業である社会では、高齢者と若者が肉体的にも親密な時間を過ごすなかで、精神的な文化が伝達された。同性愛とは年長男性が年少の少年を愛でる、つまり優位者が劣位者を可愛がる愛情なのであり、年少者は受け身な存在でしかない。

 年齢の多寡による人間の序列は、男性同士の肉体関係にも反映した。指導すべき年長者が、指導を受ける若い男性に性器を挿入するのは、自然の秩序に従った行為だった。反対に若者が年長者に挿入するのは、文化の流れを逆転させることだったので、肯定されなかった。年長者が年少者に挿入する性関係は、世代を越えて文化を伝える一種の教育ですらあった。だからギリシャやわが国の江戸時代に限らず、同性愛は世界中の至る所に存在した。

 しかし、ゲイは年齢によって人間を上下の秩序下に見ることには無縁で、ほぼ同じ年齢同じ地位の同性間の愛情関係である。ゲイには年長者が年少者を、愛玩したり指導する関係はない。ゲイは横に並んだ対等な相互関係である。上下関係を持たないゲイは、肉体関係によって確認される年齢秩序の安定化から逸脱するものだった。だからゲイの存在は、年齢秩序の上位者や年齢秩序そのものに対する反逆を意味した。同性愛は、農業を主な産業とする社会を背景とするので、田舎に棲息する。しかしゲイは、農業を主な産業とする社会では棲息できず、都市にのみ存在する。

 エヴァ・c・クルーズは「ファロスの王国」古代ギリシャの性の政治学のなかで、

 「年齢も社会的地位もほぼ等しい二人の成人男性の相互的性関係(=同性愛)は、夫が妻の、男が売春婦の、成人男性が少年の上に立つといった権力構造の基盤としてセックスを利用することを否認することだから、社会秩序に対する反逆なのである。真の同性愛(=ゲイのこと:著者注)がほとんど全世界的に非難を受けているのは、おそらくそれが理由であって、同性愛が不自然であるためでもなければ、それが生殖との連関を断ち切るためでもない」

と言っているが、まさに至言である。

 結果としてゲイは、高年齢者が優位であるという、年齢秩序に対する挑戦となってしまった。ゲイは、年齢秩序を無視する行為だったがゆえに、加齢が知の質を保証する農業を主な産業とする社会のあらゆる場所でタブーとされた。つまり通常考えられているように、ゲイの登場は異性への嫌悪ではない。ゲイは異性を嫌っているのではなく、愛情の対象として対等な男性を選んでいるに過ぎない。工業社会ではじめてその萌芽が生まれたゲイ。個人が平等になった情報社会という、横並びの社会でゲイは大々的に生まれた。

 年齢秩序がのこることは、情報社会では社会の発展を阻害する。情報社会の現代に台頭しつつあるゲイは、個人的な生存と社会的な存在が分離し始めた現代に特有の現象であり、女性解放と同様に、すべての人間が平等になることを指向する運動のひとつである。だからゲイとは、必ずしも性的な欲求から発したものではない。観念的な意識が肉体を動かすという、情報社会に特有の愛情形態である。

 多くの人は、ゲイと同性愛を混同している。ゲイに対応する日本語は、同性愛だと誤解されている。しかし、同性愛に対応する言葉はホモ=ホモ・セクシャルであり、ゲイに対応する日本語はいまだない。ちなみに、ホモは蔑視を含んだ否定的な響きを持つが、ゲイは明るく肯定的な言葉である。

 ロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマンが監督をした「セルロイド クロセット」1995では、映画のなかでゲイが如何に扱われてきたかを、記録映画風に映画の始まりから追っている。この映画によると1940年以前は、同性同士の愛情表現は友愛と見なされてタブーではなかった。それが検閲制度が出来たりして、1950年頃には同性の愛情表現がほとんどできなくなるという。

 1960年以降になって、社会におけるゲイの表舞台への登場とあいまって、映画表現のなかでもゲイは市民権を獲得してきた、という。しかし、この映画もゲイと同性愛を同じものとして扱っている。1940年以前の同性間の愛情表現は、同性愛であってゲイではなかったから、男性間の友愛とみなされた。

 今日のゲイは、男性もいるし女性もいる。また中高齢者同士の男性カップルもいれば、若い女性同士のカップルもいる。それに対してかつての同性愛は、ほとんどが成人男性と年少者男性のカップルだったのであり、成人女性が年少の少女を性愛の対象にした例はないと言っても過言ではない。

 今日でも少年愛的な同性愛がなくなったわけではない。東南アジアに行けば、西洋諸国の男性たちが少年を買う風景はいくらでも見られる。しかしそれは、西洋諸国内では許されなくなったから海外で行われているのであって、少年愛的同性愛を国内で実践したら、今日では未成年者虐待という犯罪である。先進国では少年愛的な同性愛は禁止されている。歴史を長く見せることによって、ゲイを正当化したいのはわかるが、ゲイと同性愛とは違うものだと認識すべきである。

 ゲイと性転換者=トランスジェンダーについて、ここで確認しておきたい。「マン・イントゥ・ウーマン」1990という性転換を描いたドキュメンタリー映画が、リサ・リーマン監督によって撮影されている。肉体的には男性でありながら女性になりたく、しかも女性として男性に愛されたいとか、女性でありながら男性になりたく、男性として女性を愛したい人がいる。ゲイと性転換者は混同されるが、両者は違うものである。

 キンバリー・ピアース監督が「ボーイズ・ドント・クライ」1999で、隠れた性転換者の悲劇を描いて、ゲイとの違いを浮かび上がらせている。この映画は、1993年にネブラスカ州の田舎町フォールズ・シティでおきた殺人事件をもとにしている。女性と生まれたブランドン(ヒラリー・スワンク)は、成長するにつれ自分の性意識が、他の人とは違うことに気づき始める。身体は完全な女性でありながら、彼女の意識は男性なのである。行動も男性っぽくふるまい、好感を持つ対象も女性となる。しかも、彼女は自分が男性として、女性を愛していることに気づき始める。成人するにつれ、その傾向はますます強くなった。

 肉体=外観のありようと精神のありようが異なる時、人は外観でその人のありようを判断する。性別も同じである。男性器をもっていれば男性と見なすし、女性器をもっていれば女性と見なす。ところが、彼女は自分の性器のありようと、精神のありようが反対なのである。つまり肉体的な外見が、精神のありようを裏切っている。自分自身の肉体が、自分の性別意識を裏切っている。そのため、他の人からは性別を偽った存在と見えるし、その人の存在自体がウソに見える。彼女の存在自体が、他の人を騙すものと見えるから、その人の存在自体が否定されてしまう。

 この映画の主人公ブランドンは、肉体的には女性でありながら、精神は男性になりたがった人物だった。そのため、自分の精神に合わせて、男性を装った。男装だけならとやかく言われることはないが、他者と関係を結ぼうとすると、様々な障害が出てくる。男性の顔をしてアプローチしてきたので、男性と信じてベットに入ってみれば女体である。この落差には抵抗があるだろう。相手の女性は、騙されたと思うかも知れない。ブランドンがアプローチした女性は戸惑いながらも、ブランドンの熱意が障害を乗りこえさせる。二人の間には愛情が生まれ、強い連帯感で結ばれるようになる。

 しかし、社会はそれを許さない。ゲイに対しては別種の生き物と許容しても、性を偽って接近する人間を許しはしない。この映画の例とは反対に、男性が女性と偽ることも許されない。男性がいくら女性の心性を持っていても、女子更衣室には入れない。ましてや男性器を持っていることがわかれば、その人間を女性とは見なさない。偽装をしなければ、異性の更衣室へは入れない。

 性別を偽装することが許されたのは、エンターテインメントの世界か水商売の世界だけで、いわばピエロとして格下の存在としてだけ許されてきた。彼(女)等が、堅気の世界へ入ろうとすると、大きな壁が立ちはだかるのが常だった。性を偽るつまり偽装することは、社会秩序への根底的な挑戦である。それは韓国人が日本人を装ったり、日本人が中国人を装ったりするのと同義である。国籍を偽装したとき、周りの人がどのような対応をするかを思えば、簡単に理解できるだろう。偽装を許したら社会は成り立たないのだ。この映画では、彼女は社会の良識によって、最後に射殺されてしまう。

 男性や女性のままで生きるゲイは、自らの性別を偽装していないので嫌悪されることはあっても許容される。ゲイは性別と性意識が切り離されており、自分が男性であることや女性であることを肯定できるし、異性を指向しない自分の性意識を否定する必要はない。しかし、ブランドンは性別を偽装するがゆえに、彼女の存在がウソだと見られてしまう。ここがトランスジェンダーの悲劇の根源なのである。

 ブランドンのようなトランスジェンダーと呼ばれる人たちは、自分の性別を肯定できないから、悲劇的な存在である。性別と性意識が逆転していながら、性別と性意識が密着している彼(女)等は、現実の性役割に自分をあてはめることに必死である。男性でも怖じ気づくような危険なことでも、それが男性性の証明であれば、果敢に挑戦せざるを得ない。生物的に男性であれば、男性性から逃げることこそあれ、迎合する必要はない。生物的な男性は、自分の好みで男性的な行動を選択できるが、彼女は社会の男性性に自分を合わせることによって、男性であることを確認する。この映画でも、マッチョを演じるジョンから、彼女は離れることができない。

 男性性とは勇気のあることだすれば、弱虫と思われないために必要以上にマッチョを演じる。男性になりたい女性は、男性のように煙草を吹かし、力仕事を好み、女性を保護したがる。反対に女性になりたい男性は、男性に甘えいわゆる女らしさを強調する。生物的な性別は事実であり、きわめて安定しているが、社会的な性別は性意識という観念だから、不安定である。

 男性になりたい女性は、より真実らしい男性性を求めるから、男性性の変革を求めるのではなく、あるべき男性像へ自分を近づけようとする。あるべき男性像など、確たるものは本当のところ存在せず、男性性や女性性は多くの人がそれだと思っている観念に過ぎない。だから、彼女の心性は逃げ水を追う仕儀になる。この構造が彼女の人生を悲劇に結果させざるを得ない。自己の性別を肯定するゲイが革新的で変革的なのに対して、隠れた性転換者=トランスジェンダーは現状維持的で保守的な資質である。

 物(=肉体)と観念が密着していないことが、ほんとうに理解されれば観念が観念だけで自立する。そうなれば、ゲイはより広範に棲息するようになるだろうが、模倣すべき典型的な性役割が存在しなくなるから、隠れたトランスジェンダーはいなくなるだろう。つまり完全な情報社会に入ってしまえば、肉体的性別と性意識は分離するから、隠れたトランスジェンダーは生まれる余地がない。ゲイの目指す方向性と性転換者の目指す方向性は、反対の方向を向いているといっても過言ではない。隠れたトランスジェンダーは、工業社会の置き土産とでも言うべきものである。

 事情を複雑にするが、性別を偽らないつまり隠れないトランスジェンダーもいる。ドラッグ・クィーンと呼ばれる彼等は、愛情の対象として同性を選ぶのでゲイでもある。多くのゲイは肉体の性別に見あった服装をしているが、性別を偽らないトランスジェンダーは反対の性別の衣装を着る。つまりドラッグ・クィーンは派手な異性装が特徴的である。男性でありながら女性になりたい人もいる。女装が趣味の域をこえて、女性を演じ続ける人がドラッグ・クィーンである。ドラッグ・クィーンは男性が多い。

 ステファン・エリオット監督が撮ったオーストラリア映画「プリシラ」1994のリメイクとも言える「三人の天使」1995は、ビーバン・キドロン監督が撮ったドラッグ・クィーンの映画である。ドラッグ・クィーンは外見は派手で騒々しいが、繊細で感情細やかな気配りは、彼ら特有のものがある。ビーバン・キドロン監督は女性だそうな。

 ドラッグ・クィーンは肉体的には男性でありながら、精神的には限りなく女性に近い存在だから、男性よりマッチョであることを強いられない女性のほうが、ドラッグ・クィーンに共感できるのかも知れない。この映画でも、ストレートの男性たちはドラッグ・クィーンを女性と間違えて誘惑し、女装の男性とわかるや烈火のごとく怒る。しかし女性は、ドラッグ・クイーンが男性だと知っていながら、そのままで受け入れる。

 男性が女装する映画はたくさんある。シドニー・ポラック監督の「トッツィー」1982ではダスティン・ホフマンが女性を演じているし、クリス・コロンバス監督の「ミセス・ダウト」1993ではロビン・ウィリアムスが女性を演じている。しかし、ドラッグ・クィーンは単に女装と言うだけではない。ドラッグ・クィーンはトランスジェンダーでもある。ジョエル・シューマカー監督は「フローレス」1999で、形式主義者の引退警察官とドラッグ・クィーンを並べてみせる。

 警察官だったウォルト(ロバート・デ・ニーロ)は、ごりごりの共和党支持者であり、間違ってもドラッグクィーンのラスティ(フィリップ・シーモア・ホフマン)と友達になるわけがない。しかし、脳卒中の後遺症で、半身不随の上に言語障害が残ってしまった。医者からリハビリには歌を歌うのが良いと言われ、恥を忍んでラスティのところに歌を習いに行く。

 この映画は、形式的な役割などまったく問題にしない。人間の内心こそ大切で、人間の形をしたものはみな同じだと言う。しかし、ドラッグクィーンは男性という形式を捨てて、女性という形式を体得したいと願うとしたら、ドラッグクィーンこそ形式主義者ではないか。お堅い警察官と騒々しいドラッグ・クィーンは敵対的であるように見えるが、形式主義的であるという意味では両者は同質である。この映画ではそうした事情がさりげなく描かれる。

 表面的にはドラッグクィーン肯定の映画だが、ドラッグクィーンはゲイとは違う。ゲイは男性のままであり続けるが、ドラッグクィーンは女性になりたい男性である。ドラッグクィーンは性転換者である。ラスティがさかんに性転換したいと言っていた。「ボーイズ・ドント・クライ」のブランドンは、女性でありながら男性器を持つよう性転換したがっていた。ラスティは男性器を切断してまで、男性や女性という形式に拘る。この心理構造は、形式と内実の分離つまり肉体と精神の分離したものではない。男性器があろうと女性器のままであろうと、同性の他者と愛情関係を結ぶことはできるはずである。多くのゲイは自分の肉体に手を加えようとはしない。

 ゲイ、同性愛、トランスジェンダー、ドラッグ・クィーンなどなど、性別と性意識が分離し始めた現在、事情はきわめて複雑になってきた。しかし、物と観念の分離が情報社会だとすれば、性別と性意識の分離も簡単に整理がつく。ドラッグ・クィーンに限らずゲイは、裕福な世界でしか発生しない。裕福になって、どんなことをしても喰うには困らなくなって初めて、個人が社会的な常識から逸脱できる。わが国も、やっとそこに近づいてきているので、さまざまな逸脱が目立つようになったが、ゲイはいまだ他の先進国ほどには発生してはいない。

 情報社会になって、物(=肉体)と観念の距離を測ることが可能になった。機械言語の登場により、物と観念は密着していないと知られてきた。だからゲイやトランスジェンダーが、社会の表に登場してきた。しかし、両者は異質な存在である。ゲイは工業社会の終盤で初めて登場した新しい生き物だが、ゲイではない同性愛つまり少年愛は、歴史上どこにもいたとは前述した。同様に社会的な性意識に適応できない人間も、わずかながらどこにも存在していた。肉体の性別と性意識が異なった場合、物と観念が密着していた今までは、肉体に精神を合わせた。それが今や観念が自立したので、精神に肉体を合わせるようになったのである。

 同性愛とゲイの違いが理解され始めるにつれ、90年代の半ばから、ゲイを正面から取り上げた映画が多くなってきた。グレッグ・アキラ監督の「トータリー・ファックト・アップ」1994は、十代のゲイたちの日常を断片的な話題で綴っている。

 クリストファー・アシュリー監督「ジェフリー」1995のテーマは明白である。ゲイの男性がエイズが恐くて恋愛つまりセックスができない。セックスができないのは愛情が歪んでいる、つまり正確な知識と愛情が不足なのだという映画である。この映画は、ゲイたちがhivポジティヴを乗り越え、人間愛を獲得していくさまを、実に温かく描いている。不治の病気、死の病気がうつるかも知れないという危険を犯してまで、肉体関係を結ぶ。それにより人を愛することの大切さを考える。近代が生みだした人間愛なる概念が、エイズによって試されている。

 試練にまじめに取り組み、人間の尊厳を守りとおそうとする姿勢が、この映画には満ちあふれている。人間愛が最終の理念だとすれば、エイズは最後の試練なのだ。ゲイの台頭は、情報社会では不可避なことで、女性の台頭と同じことなのだが、わが国ではそれはまったく理解されてない。女性の台頭は仕方ないが、ゲイの台頭は唾棄すべきで、両者は関係がないことだと思われている。

 ゲイの女性もいはするが、ゲイは圧倒的に男性に多い。男性が現在の文明を築いてきたのであり、非力な女性は支援者に過ぎなかった。ニコル=クロード・マチウやシェリ・b・オートナー等が「男が文化で、女は自然か?」というように、近代になるとき神を殺して論理を手に入れたのは男性だった。年齢秩序に挑戦したのは、男性だった。だからゲイは男性に多い。

 観念の操作つまり頭脳労働に生きてきたのは男性に多く、女性はむしろ妊娠・出産が象徴する肉体という自然性に生きてきた。エイズの犠牲になるのは、圧倒的に男性が多い。男性が築いてきた文化が、本当に試されている。死をも恐れない愛情だけが、人間関係を支えることができる。血筋とか家柄とかをこえて、愛情という当人の決断だけが拠り所とは、誰も言い逃れができない厳しい選択である。

 hivポジティヴであっても、正確な知識さえあれば、愛すること=セックスするのは可能だと、「ジェフリー」は言う。つまり情報社会の愛情とは、単なる感情や本能的な性欲の発散ではなく、きわめて繊細に相手を思いやった理性的な情念である。感情と理性が反対概念だった時代から、情報社会では感情と理性の合一が計られている。農業を主な産業とする社会が感情を、工業社会が理性を要求したとしたら、情報社会は感情と理性の両方が要求される。ここで人間の全体性が回復される。

 ガス・ヴァン・サント監督の「カウガール・ブルース」1994は、女性のゲイをあつかっている。ヒロインのシシー(ユナ・サーマン)はヒッチハイカーとなって、全米を駆けめぐる。女性だけで生活するカウガールのリーダーと恋におちる。異常に大きな指をもったコンプレックスはあるけれど、彼女はおおらかに生きている。ローズ・トローシュ監督の「go fish」1994では、ゲイの女性たちの日常がさりげなく描かれる。

 アンディとラリーのウォシャウスキー兄弟が監督した「バウンド」1996も、女性のゲイ映画である。コーキー(ジーナ・ガーション)は窃盗のプロだったが、いまは建物の室内改装屋をしている。エレベーターで乗り合わせた女性ヴァイオレット(ジェニファー・ティリー)が、コーキーにねっとりとした視線を投げかけ、この二人の関係が始まることを予感させる。

 結婚制度が崩れ、同棲と結婚のさかいが曖昧になってきた。男女が同居している形式では、その人間たちの精神的な繋がりを何も表さなくなった。結婚=堅気、内縁=アウトローといった区別が消滅した。ヴァイオレットにとって男性との同居は、性のサービスを伴ったビジネスになっている。

 アンディとラリーのウォシャウスキー兄弟はいずれも男性であるが、この映画で興味あるのは、ゲイの女性たちの性格付けである。コーキーは痩せて小柄で入れ墨をしており、チンピラ的な風貌で積極的な女性である。それに対してヴァイオレットは男性の情婦になるくらいだから、官能的で肉感的な顔形である。

 コーキーが男性役、ヴァイオレットが女性役といった感じがするが、展開はまったく違う。コーキーが計画をたてお金を盗みはするが、コーキーを誘惑するのもヴァイオレット、盗みを持ちかけるものヴァイオレット、邪魔になった男性を殺すのもヴァイオレットである。女性的なヴァイオレットが終始リードしている。

 リードする男性に受け身の女性という関係が通俗的なので、つい女性同士でもそれになぞらえて理解しがちだが、ゲイはストレートの男女関係をそのまま移したものではないだろう。現実のゲイたちがどんな関係を作るか判らないが、人それぞれに多々あるのだろう。少なくとも異性愛を、同性間で繰り返すだけではないはずである。

 新たな関係がなくては、ただ男女関係の移し替えになり、彼や彼女たちの精神的な充実感がない。ゲイとはきわめて精神的な関係だから、肉体構造から自動的には想像できない。その後になってウォシャウスキー兄弟は、観念の集積である「マトリックス」1999を撮っている。ゲイの精神性を暗示するようで、何か象徴的である。

 フランク・オズ監督の「イン&アウト」1997は、ゲイでも普通の市民に変わりがないことを確認している。自分がゲイであることとはちょっと距離をとるが、ゲイも差別しないという映画である。田舎の高校に勤務するハワードはゲイである。田舎町のゲイというのが、面白い設定である。農耕社会の年功序列が支えた同性愛と違って、ゲイは都会にしか生きる基盤を持たない。それが、アメリカでは田舎にも今や、ゲイがいてもおかしくない時代になりつつある。いや、田舎にもゲイがいて欲しい、という願望をこめた映画で、誰でもが平等になることの社会的な宣言の映画である。

 田舎の町が、都会とかテレビと言った先端的な部分から、新たな時代の息吹を吹き込まれ、ゆっくりとだが変わっていく。その様子が、上手く画面で展開されている。毎度のことながらアメリカ映画では、自分の好みとは違うゲイであっても、親兄弟や教え子と言った廻りの人たちがハワードを愛し続ける。違いを許容する姿勢には感心させられる。わが国では、親の意志に反した子供は勘当といったふうに、子供それ自身の存在を丸のまま認めようとせず、子供の生き方を親や廻りが強制しようとする。

 クリント・イーストウッド監督の20作目だという「真夜中のサバナ」1997の原題は、「midnight in the garden of good and evil」であり、この映画の主題は正義と悪である。この映画の主人公はゲイである。彼の催すクリスマス・パーティーには、地元の有名人たちがこぞって招待されたがる。このサスペンス映画は、陪審員を前に正当防衛が認められるか、ゲイという偏見によって有罪となるかをめぐって展開する。

 ニコラス・ハイトナー監督の「私の愛情の対象」1998では、ストレートの女性がゲイの男性を好きになってしまう話である。ニーナ(ジェニファー・アニストン)は、今のボーイフレンドであるヴィンス(ジョン・バンコウ)には不満がないけど、彼と一緒に生活するつもりはない。そんなとき、気に入った男性ジョージ(ポール・ラッド)を見つけた。ニーナは肉体関係と精神的な繋がりを違う次元でとらえ、肉体関係ぬきでジョージとの共同生活が上手く回り始めるかに見える。しかし、そう簡単にはいかない。この映画は、その後の騒動をコミカルに描く。

 ゲイの誕生は、女性から男性の恋人を奪っていく。愛情が精神的なものであることは事実だが、愛情の持続は今まで物質的なというか経済的な背景に支えられてきた。しかし、肉体を使った労働から頭脳を使う労働へと転換するにつれ、年齢秩序が崩壊し、精神的なものが裸で放り出されるようになった。そのため、人間関係は男女の対を単位せず、個人へとその規準を移し、家族は単家族へと収斂していく。

 工業社会まで男女の対が家族を支えてきた。少なくとも男女はほぼ同じ数だから、男女が対になることは、自然であるように見えた。しかし情報社会で、人間存在の基盤が個人になったとき、男女が対になる経済的な必然性を失う。きわめて個人的で恣意的ともいえる、嗜好によってパートナーとなる人間が選択される。それは人間的な魅力が、経済力や社会的な地位ではなくなったことを意味する。

 通常の結婚であれば、結婚制度が当事者を守ってくれる。たとえ愛情がなくなっても、一緒に住むことを法律が強制する。扶養の義務もあるし、財産分与の規定もある。しかし、ゲイは法律の保護がないから、愛情が冷めたらそれで終わり。そこで関係は切れ、共同生活は解消である。より魅力的な人間に移っていく相手の心を止めるものは、自分の魅力を除いては何もない。人間的な魅力とは一体何か。

 この映画でも、ゲイの老演劇評論家(ナイジェル・ホーソーン)が重要な脇役として登場し、独り身というのは孤独だよと言うが、それが恐ろしいくらいに伝わってきた。個人が家族の単位となる情報社会では、ゲイもストレートも孤独なのだ。それは今まで、人間関係の本質が表面化しなかったから判らなかっただけで、今後は誰でもこの孤独に襲われる。この映画の主題は、情報社会の先端を行くアメリカならではのものである。

 リサ・チョロデンコ監督の「ハイ・アート」1998は、女性のゲイの映画である。ゲイの女性が相手をかえる背景を、仕事に絡めて描いている。女性が職場進出し、しかもゲイが広まるにつれて、仕事と私生活の相克は当然に起きる話である。そうした意味では、この映画はゲイのカップルの話というより、人間関係が愛情と仕事で揺れ動く物語であるといったほうがいい。

 しかし、この映画のセンスは、80年代に流行った古いフェミニズムにもとづいている。男性の上司がまったくの無能に描かれたり、ボーイ・フレンドが女性の仕事や人間関係に価値を見いださなかったりと男性に冷たい。女性が男性と同等になる過程で、しばしば見られるアホな男性をたくさん描いている。すでにアメリカ社会は女性の能力を認めているが、女性は被害者であるという遅れた意識をもった監督にみえる。女性による女性のための映画は、時代に遅れておりすでに物足りなくなった。

 女性だけの話題が残るように、ゲイだけの話題が残りはする。しかし今後は、ストレートとゲイが混交した社会になっていくから、どんな映画にも男女が登場するように、ゲイもどんな映画にも登場する。後述するp・j・ホーガン監督の「ベスト・フレンズ・ウエディング」では、ヒロインの相談相手はゲイの男性だし、ジェームス・l・ブルックス監督の「恋愛小説家」1997にも隣人としてゲイが登場する。

 1960年頃には、職場に女性の存在は珍しかったが、今では隣の机で女性もふつうに仕事をしている。ゲイに関しても、何ら珍しい存在ではなく、通常の隣人として扱われるようになる。女性の台頭と同様にゲイの台頭も、今後は人間関係を扱う通常のものとなる。その時はことさらゲイ映画と特記する必然性を失っているだろう。

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