単家族的映画論     第2部

現代アメリカ映画における家族像について     2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
第二部 映画の舞台は単家族

1.95年は爆発の兆し
 1980年代から始まったコンピューターの普及は、職場はいうに及ばず家庭へも大々的に普及した。長かった不況をくぐりぬけ、産業構造の転換をすませたアメリカ経済は、新たな発想を身につけて完全に立ち直った。新たな発想は、映画製作においても実を結び、優れた作品が大量に生まれはじめる。アメリカ映画は、この年を境にして質量ともに充実し始める。

 コンピューターを使った映画が実に滑らかになり、もはや実写と区別がつかないくらいになってきた。コンピューター・グラフィックス(=cg)というアニメとも違う手法はゲームの世界では見られたが、はじめて劇場用映画として登場してきた。また、特殊効果つまりスペシャル・エフェクツ(=sfx。エフェクツがfxと聞こえるので、sfxと言われるようになった)もその精度を上げ、自然に見えるようになってきた。

 ジョン・ラセッター監督の「トイ・ストーリー」1995は、はじめてcgだけで作られた映画である。コンピューターが時代の主役になり、もはやコンピューターなしでは、社会がまわらなくなっている。だというのに、この映画の主題は、コンピューターはおもちゃ、つまり、コンピューターは人間に奉仕するものだという。コンピューターはトイである、つまりコンピューターというおもちゃの話。cgだけで作られた初めての映画が、なぜ、おもちゃの話なのか、これで納得させられる。

 映画は、神(正義と悪)→人間(子供)→おもちゃ(コンピューター)という順にできあがっている現実社会の秩序構造を一つずらす。子供を、正義と悪=絶対の体現者とし、神の位置におく。そして、おもちゃ(コンピューター)を意志あるものとして、人間になぞらえる。子供が二人登場するが、それぞれに正義と悪を象徴させている。映画のなかでは、子供(正義と悪)→おもちゃ(コンピューター)である。

 正義の子供だろうが悪の子供だろうが、コンピュータは子供には逆らえない。つまり、おもちゃが子供の僕であるように、いかにコンピューターが発達しても、それを使うのは子供であり人間である。子供言いかえると人間は、おもちゃつまりコンピューターに対して絶対者である。それが、この映画の主張である。

 ジョー・ジョンストン監督の「ジュマンジ」1995は、まるで魔法のようだ。ジャングルの動物たちが、街にあらわれたり、大洪水になったりすることが、自然のうちに処理されている。大がかりにsfxを使ったこの映画のテーマは、人間愛と家族愛である。人間愛はともかくとして、家族愛は新たな家族の形が模索されているのに、この映画では旧来の家族愛が無条件で肯定されている。とくに子供にたいして、権威主義的な対応をしている父親を、愛情が表現できない不器用な男として肯定している。

 この二本の映画をつうじてわかるのは、cgやsfxといった新しい技術が、映画の出来を決めるのではないということである。映画の面白さは主題であり、時代を映した人間像の展開である。「トイ・ストーリー」はcgを使いながら、新しい時代の人間関係を模索している。それにたいして、「ジュマンジ」は大がかりに精巧なsfxをつかいながら、古い家族像を下敷きにした。どんな技術も人間の考えること、つまり思想を表す道具なのである。

 1995年をすぎると、アメリカ社会の情報社会の成熟を反映して、アメリカ映画は爆発的な活動期にはいる。cgやsfxといった技術面だけではなく、映画を支える主題というか思想性といったものが、今までのものとは大きく異なりはじめる。現実の世界には必ずしも拘束されず、個人の創造的な観念で緻密にねられた物語が登場してくる。それは家族映画のみならず、すべての分野の映画に見られるのだが、本論では男女の関係や家族映画を中心にして話を進めていく。

 マイク・フィッギス監督の「リーヴィング・ラスベガス」1995は、いわゆる家族ものではないが、情報社会の暗部を描いて、男女関係の転倒を示唆している。思いのほか多額の退職金をもらった主人公ベン(ニコラス・ケイジ)は、アル中を究めて死ぬためにラスベガスにくる。そこで買った売春婦のセラ(エリザベス・シュー)と心が通じる。会社の仲間も家族もいない彼女は孤独であり、気持ちを通わせる人間が欲しい。死ぬために酒を飲む覚悟のベン、短い時間を好きに生きようとする彼に、セラは孤独を癒してくれるものを感じる。女性に経済力ができた今や、男性にとって女性が必要なのではなく、女性にとって男性が必要なのである。

 精神の飢えが、人間同士を引き付けるのは当然としても、経済力を持たず自立していない人間が、孤独を感じることはあり得ない。今まで男性が女性を養ってきた。しかし、愛情があるうちは扶養するが、愛情が冷めたら扶養が打ち切られるとすれば、扶養されているほうはどうだろう。自立が孤独をうむのであって、扶養されている人間には、扶養を打ち切られる恐怖しかない。サラが売春婦という、経済力を持った女性だからこそ、孤独を男性と共有しあえた。

 動物のように、素肌と素肌を触れ合って一緒にいる、そのことが癒しである。隣にもう一人の人間がいることが、精神の安定を生みだす。この映画では、男性と女性で心的な違いはない。男性と女性が同じように自立したとき、男女間には性別による違いはなくなっている。情報時代の男女の共感・相互理解のされ方として、この映画の時代を見る目を絶賛する。

 映画のなかで女性がセックスの主導権をもてなかった、とは前述した。「リーヴィング・ラスベガス」に限った話ではないが、男女間に社会的な違いがなくなるに連れて、ラブ・シーンそしてベッド・シーンも変わってきた。今や経済力を獲得しつつある女性は、男性と同質の精神活動を持ち始めた。もはや女性も、待つだけの存在ではない。そのため、女性も相手の恋心をつかむべく、自ら積極的に男性に言い寄る。当然のことながら映画でも、女性が男性に接近するシーンがふえてきた。

 身長や体重は相変わらず男性のほうが大きく、腕力も男性の方が勝っていながら、ラブ・シーンやセックスの主導権を、非力な女性が取り始めた。その結果、女性はセックスを待つとは限らなくなった。女性からセックスに誘うこともある。いままで男性が上で、女性が下に描かれることが多かった。しかし、ベッドにおいても女性が男性に組み敷かれるのではなく、男性の上になって体を動かすことが自然になった。もちろん「リーヴィング・ラスベガス」でも、女性が上で男性が下である。

 95年の家族映画の白眉は、マーチン・スコッセシュ監督の「カジノ」1995である。彼は、大きく話を広げながら、最後には上手くまとめあげる。この話は、カジノを舞台にしているが、主題はギャンブルではなく専業主婦の崩壊である。実話に基づいた1970年代の話というが、話自体は実にたわいがない。

 田舎のちんぴらサム(ロバート・デ・ニーロ)が、ラスベガスのカジノの支配人を勤めることになる。サムのカジノ経営は順調。サムはカジノに巣くう女ギャンブラーのジンジャー(シャローン・ストーン)にほれこみ、強引に結婚する。友人のちんぴらニッキーも、サムを追ってラスベガスに来る。裕福で平穏な日々が過ぎて行くが、やがて三人の関係にひびが入り始める。

 この映画でみるべきは、シャローン ストーンが演じたジンジャーである。小さな時から貧乏で、金に飢えた生活をしてきたので、彼女は無償の純愛には不感症。サムの求婚にも、金が目あてで応じる。サムは何不自由ない贅沢な結婚生活をもたらしてくれる。しかし、違法すれすれとはいえ、自立して緊張の毎日を過ごしてきた彼女には、平穏な結婚生活がたちまち退屈になる。サムは、典型的な良き夫。彼には非の打ちどころがない。もてあます自分をぶつける対象がない。

 出口のないストレスが、悪い方へ悪い方へと彼女を追い込んでいく。良き夫のサムに対して、彼女は良き妻を演じられない。彼女は家の外で働く男性に、家庭を守る女性という役割分担ができない。男女の性別による役割分担という良識から離れていくたびに、彼女は嫌味な女性になっていく。観客は、誰も彼女の味方にはならない。彼女は麻薬に溺れ、とうとう哀れな姿で死んでしまう。

 1970年代は、アメリカの女性が、専業主婦を問い直し始めたときである。専業主婦は男性に養われ、何不自由なく暮らしていたが、彼女たちは何か手ごたえのなさを感じ始めていた。しかし、手ごたえのなさが、何に由来するのか判らなかった彼女たちは、アルコール中毒や不謹慎な行動にでることがあった。

 美しき家庭生活が順調に見えた当時、家庭での決定権は男性がにぎっていた。高額な買い物から住居の決定まで、重要なことは男性が決めた。正義はすべて経済力を持った男性側にあった。そして、男性が仕切る輝く家庭に正義があった。新たな時代の波間で煩悶する人間は、誰にも理解されず、ある時は醜く嫌みに見えるものである。シャローン・ストーンの美しさが、ゆっくりと薄汚れていく様は見事だった。

 生きる手ごたえがないのは、養われている限り、どんなに豊かな生活をしている専業主婦でもまったく同じである。むしろ貧しく生活に追われていれば、女性も稼ぎに出なければならず、専業主婦におさまってはいられない。裕福な専業主婦は、誰からも羨まれる境遇にあるから、精神的な悩みは理解されにくい。裕福なほど理解されない。理解ある夫にめぐまれ、贅沢な暮らしをして、いったい何が不満なのだといわれる。

 「クレーマー・クレーマー」では、自立心にあふれた主婦のジョアンナが、子供を置いて家を出ていったが、すべての主婦が家から出られるわけではない。悩みの本質は、本人にも判らない。ただ、悶々とするだけ。そして、おずおずと手をだすことは失敗ばかり、自らの無力さに絶望的になる。いくら裕福でも、生活力のない専業主婦は、今の生活から抜け出すことはできない。

 貧乏な者には、生きることを精神的に悩む暇はない。今日を生きるだけで、毎日が忙しく過ぎていく。裕福になってはじめて、精神的な悩みを悩める。精神的な悩みは、きわめて贅沢である。精神的な悩みは、貧乏だった時代には少数の高等遊民のものだった。だから精神的な悩みに、社会的な共感が成立しなくても良かった。

 今や働かない専業主婦を養えるくらいに、裕福な社会になった。裕福になったがゆえに、専業主婦は悩みはじめた。贅沢といわれようとも、悩みは解決されねばならない。皮肉にも裕福になって、女性の職場進出が始まった。人間の尊厳を支えるものは、自立した精神生活であり、それを支える経済力である。夫に養われる専業主婦の立場は、女性の精神を歪める。元気な野鳥であるジンジャーに魅力を感じたサムは、良かれと思って、その鳥を結婚という篭にいれた。そして、窒息させてしまった。ジンジャーは、サムの好意の犠牲者である。

 1970年代は、専業主婦たちが煩悶していた時代だった。生きる手ごたえを与えてくれるのは、自分の体を使ってする職業労働だ、と気がつくまでには時間が必要だった。アメリカの1970年代は、結婚が幸福への道程だった時代から、職業が人間の尊厳を確保してくれると認識される転換点だった。1990年代になっていたら、ジンジャーは養われる道つまり結婚を選ばなかっただろう。

 レニー・ハーリン監督が、奥さんだったジーナ・デイヴィスを主人公にして、女性の腕力物を撮っている。「カット・スロート・アイランド」1995と「ロング・キス・グッドナイト」1996がそれである。呪術の担当者として女性が登場し、呪術の力によって女性が支配権を獲得する設定は充分に考えられる。腕力が優位の観念ではないからである。しかし、西部劇や海賊物という武力や腕力が、直接的にものをいう世界になると、女性の非力さが話を不自然にする。

 男性にあっては、強力な腕力と優秀な頭脳は両立する。両者を兼ね備えた男性は存在する。しかし、男性以上に腕力があり、しかも頭脳が優秀な女性はなかなか想像できない。アメリカの女性は大変だとため息がでる。美人でスタイル抜群の女性が、いかに格闘技に秀でていても、男性の猛者には歯がたたない。女性の社会進出は、肉体的な屈強さの獲得とは何の関係もない。にもかかわらず、肉体的な強さをも求めるアメリカの女性たち。こうした傾向は映画のなかだけではない。

 社会的な男女平等を指向するアメリカの女性は、肉体的な強さにおいても男性と同等になろうする。経済的な力をつけたアメリカ女性は、肉体的な非力さをも克服しようとする。女性が困難な旅路に出発したここにも、アメリカ社会のエネルギーを感じるのである。

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