単家族的映画論      第1部

現代アメリカ映画における家族像について     2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
9.人間はすべて平等
 人間はみな平等といわれてきた。今や貴族はいないし、賤民もいない。身分による違いは撤廃された。男性と女性で社会的な扱いが違うこともない。誰でも一票の投票権を持っている。しかし、現実には平等ではなかった。現実の社会には、差別がある。

 金持ちと貧乏人では、社会的な扱いは違う。女性だという理由で、希望する職業につけない。性別が同じだという理由で、結婚できない。黒人がそれに異議を唱えた。続いて女性が異議を唱えた。身体障害者そしてゲイ…と多くの人たちが異議を唱え始めた。近代のスローガン「人間はみな平等」を、改めて確認しなければならない。映画は真の平等を求めて、新たな作品を送りだし始めた。

 エドワーズ・バーンズ監督の家族総出の手弁当スタイルという、たった200万円で製作された「マクマレン兄弟」1995は、映画が最後によるところは優れた脚本であることを如実に教えてくれる。映画の出来不出来は、映画を作る人間がこの映画で何を訴えたいか、それに尽きる。少しくらい撮影が下手でも、演技がぎこちなくても、セットが貧弱でも、そんなことは二の次三の次である。彼等の自宅をつかって撮ったこの映画でも、素人の演技はぎこちなかったが、それはすぐに気にならなくなった。

 「マクマレン兄弟」は、ジャック、バリー、パトリックの三人の兄弟が、個人的な問題に悩む姿を描いたもので、アメリカの平均的な男性三人が、実にまじめに人生を生きていることが良く伝わってくる。三兄弟に限らず登場する普通の人々が、自分の生き方や考え方を求め、しっかりと持とうとしている。それをストレートに表す若い監督。この映画には、有名な俳優は一人も登場しないが、充分に胸を打つ。

 この映画の最初のシーンは、お父さんを埋葬する墓地から始まる。お父さんを埋葬した後、お母さんはいう。
「35年間、お父さんと一緒に暮らしてきたが、お父さんは死んだ。これからはアイルランドに住む恋人と一緒に暮らす。おまえたちは、私のような間違いを犯さないように」

 このお母さんは、経済的な理由によりお父さんと結婚したのだろう。いきなり定型的な核家族を否定して、映画は始まる。三人の兄弟が登場するこの映画で、ユダヤ人を除く恋人たちは、誰も結婚するそぶりさえ見せない。恋人であることはとても大切にするが、それが結婚には結びつかない。温かい人間関係に飢えていながら、旧来の家族を指向できない世代の悩みである。

 長男ジャックの不倫相手であるアンは、気に入った相手と簡単にセックスするので、離婚されたといって恥じない。彼女にとってセックスは一種のスポーツであり、親しい誰とでも握手するように、気に入った人と挨拶代わりにセックスをする。彼女はセックスと夫婦愛は関係ないという。今のアメリカでは、まだセックスを夫婦愛の担保とするが、やがてセックスと夫婦愛は切り離されるだろう。

 女性への経済的な支配権を男性が握っていた頃、つまり性別による役割分業が支配的だった時代には、妻が妊娠する子供はその夫が養った。自分の血縁をひいた子供だけを、男性は養ったのである。そこで妻が妊娠する子供は、他の男性の子供であってはならなかった。初期の工業社会では避妊が発達しておらず、セックスが妊娠につながったので、男性たちは自分の女性に不倫させなかった。女性を養うことと引き替えに、その女性とのセックスを一人の男性が独占していた。不倫したら離婚につながり、経済生活が立ち行かなくなるとすれば、女性のほうもめったなことでは、夫以外の男性とセックスするわけにはいかなかった。

 経済的な男性の支配が、操の堅い女性が美しいとか、浮気性の女性は下品だといわれる性道徳をつくっていたことは自明である。それは男性が主張しただけではなく、男性の主張を自分の意見として受け入れることが、女性の利益にもなった。いつのまにか女性は、セックスについて口をつくんだ。そして、多くの男性とセックスをするのは、悪いことだと考えるようになった。

 核家族を通じての男性による経済支配は、セックスと愛情を結びつけ、女性を終生の一夫一婦制という家族制度の中に閉じこめた。ほんとうは愛情がなくても、充実したセックスはできる。しかし、愛情にもとづいたセックスが尊くて素晴らしいのだ、という理念を男性支配の核家族は広めた。当時は完璧な避妊が手軽にできないことも、終生の一夫一婦制と愛情の結合を手助けした。工業社会つまり核家族の性道徳とは、男性による女性への経済支配の反映だったのである。

 女性は今や、男性に養うことを要求していない。だから経済的な扶養の見返りと、セックスを交換する必要はない。女性もセックスを語り、セックスが好きだと公言しても、もはや誰からも咎められない。しかも、完全な避妊が手軽に出きるようになった。ここでセックスの意味も変わる。経済的なものとは離れた精神活動の自立が、愛情は愛情として純化させるだろう。そして、肉体的な快楽の追求は、愛情とは別のところでも可能になる。セックスのある夫婦愛もあるし、セックスのない夫婦愛もあり得る。アンの生き方が、市民権を獲得する日は遠くない。

 「マクマレン兄弟」が描くのは、現代に生きる証明を必死で捜す姿である。それは現代を生きる誰にも共通のものだから、そのままで共感できる。登場する人間も、お母さんたちの古き良き核家族を否定し、単身生活者、未婚者や再婚者など時代模様そのままである。どれに対しても、やさしい理解とまじめな抵抗を示す世代の揺れが良く判る。新たな人間関係の構築には、簡単に解答は誰にもだせないが、試行錯誤する状況がしばらく続くことを象徴した映画である。

 中年女性の帰郷を描いたジョディ・フォスター監督の「ホーム・フォー・ザ・ホリデイ」1995では、個人に分解していく家族を淡々と描いている。伝統的社会では、親子とか兄弟といった血のつながりが、家族の親密な愛情を支えてきた。血縁に基づく愛情は、決して切れるものではないと考えられてきた。その理由は、人間の生活が不動の土地と結びついていたからである。土地を離れてどこへも行けない農業を主な産業とする社会では、血縁の家族で生活することが適していた。農業は多くの人手が必要だったのだ。だから、血縁に基づいた家族愛があった。

 農業が主な産業である伝統的社会では、労働は土地に対してなされた。土地からの収穫で、人間は生活してきた。土地という自然が人間生活の根幹を支えたから、人為的で根拠のあやしい精神性や愛情より、事実だと確認できる親子の血縁という自然性が重視された。必然的に、精神的な繋がりの夫婦愛より、血縁に支えられた親子愛のほうが、より強いつながりだった。自然性が重視される伝統的な社会では、固定的な身分制が生まれる必然性があり、人間の属性による差別が不可避だった。身分制や差別がなければ、多くの人間が生き伸びることはできなかった。農業が忍従を人間に強いた。ここでは男女がともに、自然の支配に従わざるをえなかった。

 工業社会になって、労働は土地に対してなされるのではなくなった。労働は工場のなかで、物に対してなされるようになった。物をつくることによって、人間は生計を立てるのようになった。人間の労働=生活が土地から切れたために、人間関係の支えも血縁といった自然性から離れた。それを反映して家族の重心は、血縁の親子愛から夫婦愛へと移った。つまり大家族から、核家族へ移ったのである。しかし、核家族では男性の経済的な優位が突出してしまった。そのため、性別による役割分担を愛情というオブラートにくるみ、男性支配をあからさまにはしない仕組みができた。

 すべての個人が自立を促される情報社会では、知識という形のないものを労働対象とする。知識の生産が、各人の生計を支える。知識は人間の精神活動そのものである。情報社会では、精神活動をもっとも大切にせざるを得ない。それが情報社会では血縁といった自然性より、愛情といった精神活動が大切にされる所以である。しかもここでは、男女がともに同質の精神活動に従事し、両者ともに経済力がある。そのため、片方が他方を養う必要性はない。男女間に経済的な支配関係が混入する余地がないから、男女は純粋に精神性つまり愛情だけの繋がりとなる。当然のこととしてそこでは、個人を単位とした家族つまり単家族にならざるをえない。

 家族が舞台となった映画、しかも新しい試みをもった家族映画は、この頃から目白押しになる。黒人少年の犯罪を扱ったスパイク・リー監督の「クロッカーズ」1995では、殺人犯も黒人、被害者も黒人、それを捜査する刑事は白人。あるレストランの黒人支配人殺害を、黒人の若い麻薬密売人ストライクが、黒人のボスから依頼される。ストライクはおびえながらも、その殺人をしたかのように物語は進行する。

 自首してきたのはストライクの兄ヴィクターである。ヴィクターはストライクと違って、二人の子供を持つ、街でも評判のまじめな働き者。この自首に不信をいだいた殺人課の刑事ハーベイ・カイテルは、真犯人はヴィクターの弟ストライクとみて、執ような捜査を開始する。黒人家族の血縁的つながりの強さを前提にした映画である。しかし結末は、意外な展開を見せる。

 ロブ・ライナー監督の「アメリカン・プレジデント」1995では、妻に先立たれたアメリカ大統領の恋を描いている。わが国では、いい年齢に達した一人前の人間は、恋をしてはいけない雰囲気がある。恋愛は、青春期の半人前の若者だけがするもので、若い時代の恋愛期間が終わったら、あとは仕事に取り組むことが要求されているようだ。しかし、アメリカでは違う。現職の大統領といえども、恋することは許される。それがこの映画の結論だが、この映画は個人の確立とは何か、愛情とは何かを考えさせてくれる。

 この映画では、マイケル・ダグラス演じるアメリカ大統領が、女性に振られてしまう。失恋を反省しながら、彼は実にさわやかな演説をする。その要旨は、一人の女性との約束をやぶって、政策と交換したことが間違いだったというのである。ここには、一人の命は地球よりも重いという、アメリカの苦渋に満ちた選択の歴史がある。名もない一市民との約束より、政策立案者たちの練りに練った政策を、議会で通すほうがはるかに重要だろう。その政策によって救われたり、影響を受ける人の数は、計り知れないものだからである。しかし、この映画ではアメリカ大統領と、市井の一女性はまったく平等である。両者の言葉に重みの違いはない。

 人間はすべて平等で、誰でも同じように大切にされると言ったとき、実は価値の混乱が始まった。ここで、何をそして誰を大切にするのか、その基準がなくなった。誰でも大切にされると言ったときには、実は誰も大切にしないと言っているに等しい。そうしたなかで、一人一人の意見が大切にされる制度を、かろうじて作り上げてきたのが、近代でありアメリカである。誰が決めるのでもない、ただ普通の名もない多くの人たちの合意が、その国の政治を動かすのだという約束ごとが、幻想でもいい、それしかないのだという決意を、この映画からは感じる。

 愛する女性へのプロポーズが同棲の破綻の原因になる、きわめて今日的な状況を描いたベン・スティラー監督「ケーブル・ガイ」1996は、現代の人間疎外が現れて恐ろしくなる映画である。「ケーブル・ガイ」は、最初ケーブルtvを申し込んだ男性のほうからの視点で展開する。それが、途中からケーブルtvの作業員であるケーブル・ガイのほうへと視点が移っていく。誰も友達がおらず、人間間の適切な距離が取れない彼は、いつもピエロである。他人によかれと思って、行動的であればあるほど、孤独になっていくケーブルガイは、現代の希薄な人間関係の体現者である。

 現代では、テレビがベイビー・シッターになっている。ケーブルtvの作業員でありながら、テレビづけの子供を救わなければならないと、自らテレビの発信塔にむかって投身自殺を試みる。彼は現代のドン・キ・ホーテである。情報社会のなかで、かつてのような全人格的な形成がのぞめなくなる状況が、恐ろしいまでに迫ってくる。

 コンピューターの普及によって、労働からは屈強な肉体はますます不要になる。肉体が不要、つまり肉体と肉体が接触しなくなる時代に、人間はどのような認識方法を獲得するのだろう。究極の平等をめざす情報社会は、認識の根底的な変革を求めている。

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