単家族的映画論       第2部

現代アメリカ映画における家族像について     2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
8.純粋な愛情の誕生
 1960〜70年代と続いた既成の権威を疑い、人間の本質にせまる流れは、ずっと続いていた。たとえば、西洋社会の価値の根幹であるキリストは、普通の人間と同じ欲望をもっていたという主題で、マーチン・スコセッシ監督によって「最後の誘惑」1988が撮られている。キリストの神聖を冒したこの映画は、敬虔なクリスチャンの逆鱗にふれ各地で上映禁止にあった。

 90年頃から、制度と内実で悩む映画は減り始めた。そして、結婚とか地位とか年齢といった制度や属性のもつ意味より、人間の関係を大切にしようという映画が現れ始める。ビーバン・キドロン監督の「迷子の大人たち」1992では、社会の制度は個人を守ってはくれず、世間体よりも愛情に忠実に生きようというメッセージが謳われている。1995年をすぎると、愛情讃歌の映画は全面に開花してくる。

 フランシス・コッポラ監督の「ジャック」1996を貫く主題の志しの高さに、まったく脱帽である。この映画でフランシス・コッポラ監督は、新たな哲学の創出を試みている。この映画は、子供の心をもった大人といった、子供の純真さを主題としたものではない。制度と内実が衝突したときには内実が優先するのと同様に、外見=肉体と内容=頭脳が分離したとき、その本質は内容にあるというのが主題である。

 内容と形式の分離という主題は、ゲイや女性の台頭によって核家族が崩れ、同性の結婚すら認められるようになった今日の課題である。肉体的なもしくは形式的な制度や外見に、ことの重要性があるのではない。そうした制度や外見を支える中身や精神こそ、大切にせねばならないと訴える。そして、誰のどんな精神も平等であり、同じように大切にしようと訴える。

 伝統的社会では、形式と内容が一致していた。形式が内容を支えたので、まず形式を整えた。形式を大切にすることによって、内容が確保できた。情報社会を前にして、形式は必ずしも内実を表現しなくなった。例えば言語は、物や事を指し示すと考えられていたが、指し示す物や事と言葉のあいだには、架橋できないくらいに離れていることが明らかになった。コンピューターの機械言語は、現実的な実態をもたなくても言語たり得る。電気的なオン・オフが、意味をもつのである。ここで形式と内実の分離が始まった。もはや形式を重んじることは、内容を大切にすることではない。

 「ジャック」は情報社会の到来を、はっきりと見据えている。おとぎ話のような体裁をとりながら、哲学的な主題を非常に平明に、しかも先取的に展開している。情報社会では何をもっとも大切な価値とするのか、その問いにこの映画は答えようとする。「バード・ケージ」が、家庭や結婚といった関係性への一般解を作ったとすれば、この映画は人間そのものに対する一般解への、新たな第一歩である。

 異常に成長の早い子供を描いた「ジャック」は、家族より広い個人なる概念の確立を目指している。難解な体裁とは無縁なこの映画は、まったく新たな哲学を作ろうとした。ジャック(ロビン・ウィリアムス)という異常な子供の設定により、家族論が人間論へと転化する契機をつかんでいる。純粋な愛情の誕生である。

 男女関係においても純粋な愛情は、アメリカ映画の主流になりつつある。アンソニー・ミンゲラ監督の「イングリッシュ・ペイシェント」1996は、国を越えた中年者の愛情を描いて、九七年のアカデミー賞では九部門でオスカーを受賞した。この映画のヒロインは、決して美人ではないキャサリン(クリスティン・スコット=トーマス)が魅力的で、頭脳明晰でしかも独立心の強い女性として描かれており、実に主体的に行動する。また、夫以外の男性を愛することにそれほどの抵抗を見せず、いわゆる不倫=許されざる愛に悩む時代は終わったことを、この映画は示している。

 ヒロインのアルマシー(レイフ・ファインズ)はキャサリンを救うためには、敵国ドイツとの取引も厭わない。ミンゲラ監督は、この映画で至上の純愛を謳っている。愛情が国家や戦争の犠牲になる映画はたくさんあったが、この映画では愛人の命を救うために、国家機密を売り渡した。国家と個人の関係が逆転している。彼等の愛情は、国家を越えている。まさに一人の命は地球より重いのである。

 恋の邪魔をするのが、伝統的社会では家や親だったり財産・権力だったりしたが、今日ではどんな男女でも結ばれ得るので、純愛が成立しなくなったと言う。しかし、事情は反対である。今までは、女性に経済力がなかったので、男女が対等ではなかった。男女が平等ではない状況では、片方がもう一方を保護する関係しかできず、本当に対等な恋愛は成立しない。保護する男性に保護される女性のあいだには、本当の恋愛はなかった。女性が自立した今日こそ、純粋な愛情が成り立つのである。

 アメリカでは女性の終生にわたる職業が定着した。そのため女性も、男性とまったく同じ立場で男女関係が作れるようになった。そうした時代背景がこの映画にはある。精神的なつながりだけで男女関係が成立しうる現代で、初めて見ることができる恋愛映画である。今やっと純粋な愛情が語れる時代が来たのである。

 純粋な愛情は、時には非常に残酷な仕打ちもする。家族関係が血縁にもとづいていた時代には、兄弟や姉妹が多かったので、結果として身よりない人というのは少なかった。年老いた老人は、子供たちと一緒の家に住んだ。しかし、少子化した現代では、独り身で人生の最後を迎える人が少なくない。リー・デビィッド・ズロートフ監督の「この森で天使はバスを降りた」1996は、純粋な愛情をどのように制度化するのか、独身者の相続に対する果敢な試みである。

 パーシー(アリソン・エリオット)は、女主人ハナ(エレン・バースティン)が一人で切り盛りするスピットファイヤー食堂に住み込んで、人生をやり直そうとした。ハナは高齢のため、体がだんだんと弱っていた。パーシーは、ハナから食堂の経営を任される。近所に住むシェルビー(マルシア・ゲイ・ハーデン)が、パーシーを助けて厨房に立つようになる。

 ハナは食堂を売りたいと考えて、不動産屋に売るように頼んでいたが、10年越しで売れなかった。そこで、パーシーが作文コンテストをしたらどうかと提案する。それは、100ドルの登録料を添えて、なぜこの食堂がほしいか作文を書かせる。そして、コンテストの優勝者に無料で食堂を譲るのである。大勢の応募者の中から選ばれた作文コンテストの受賞者は、パーシーと良く似た境遇の女性に決まり、その女性がバスから降りるところで映画は終わる。

 ややのろい前半には、たっぷりと伏線が張られ、それが終盤へとうまく絡んでくる。主人公パーシーが継父に妊娠させられる。それでもお腹の子供は自分の子供だと、大切にしていたのが、流産させられての継父殺し。主人公の設定が現代的で、家族の崩壊した社会でも子供に愛情を注ごうとする。パーシーは貧困に育ち、自分のものが何もない。やっと手に入れたお腹の子供を守れずに、殺されてしまった。その結果の殺人。

 パーシーは出所したが、彼女には行くところがない。田舎の町はよそ者を受け入れにくい。保安官の頼みによって、ハナもパーシーを渋々と受け入れたのだった。しかし田舎の町も、すでに古き良き家族は崩れている。シェルビーに教えられた、今は使われてない教会からは、共同体の崩壊と孤独感が伝わってくる。

 核家族は崩壊し、個人に解体させられてしまった。長寿化は一人になった年寄りを生み出す。そうしたなかで、人間はやはり愛情にすがって生きる。それはかつてのように血縁の家族ではなく、もちろん経済的な利害だけに支えられたものでもない。ただ愛情という純粋に精神的なものである。「この森で天使はバスを降りた」はリー・デビッド・ズロートフという男性監督の九六年の作品だが、この映画はこれからの家族のあり方に、新たな一石を投じた。

 財産を持った老人と、逸脱した若者、相続者と使用人。たった100ドルで、食堂付きの田舎の家を譲ってしまう老人ハナ。しかし、ハナには大勢からの登録料という大金が入り、誰も損をしていない。血縁者が相続するのではなく、一枚の手紙に書かれた文章で、譲る人間を決める。現状では脱法行為かも知れないが、ここには新しい相続の形態がある。現在の相続税制度から見れば、血縁者や特別縁故者以外への不動産の相続は認められないだろう。しかし、個人の意志を大切にする社会では、遺言による遺贈だけではない相続制度が求められている。

 この映画では、作文コンテストの周知に新聞を使っていたが、情報の周知が誰にでも簡単にできるようになると、マスコミや支配者の情報独占は崩れる。マスコミは大新聞・放送局からの一方通行だ。マスコミは大衆社会のカギといわれながら、実は人々を同質に染め上げるものだった。個人による情報の発信は、インターネットの専売特許である。個人間を直結する可能性をもったインターネットの普及は、血縁に頼らなくても生きていけることを暗示している。

 情報の周知が誰にでも可能になることは、公平な関係が成立することである。ゆったりとした農業を主な産業とする社会は、血縁や地縁が人間を支えたよき時代だった。農業を産業とする閉じられた社会では、地域や組織のボスと言ったいわゆる有力者に有利で、同時にそこは差別の多い世界だった。大衆化した情報社会では、財力を誇る有力ないかなる個人でも、庶民という多数の前に歯が立たない。

 ピーター・イエーツ監督は「最高のルームメイト」1996で、孫マイケルと祖父ロッキーの関係を描く。かつてなら年寄り子は三文安と言われたものである。この映画でも頑固な職人だった祖父は、孫にいつまでも小さな子供であることを期待していた。しかし、本当に一人立ちしたマイケルに、ロッキーは心熱いものを感じ、二人は大人の関係を作っていく。アメリカでは珍しい孫と祖父の同居を通じて、この映画も人間関係は愛情でだけ成り立つと訴える。

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