単家族的映画論    第1部

現代アメリカ映画における家族像について     2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
5.青春の輝きと家族像
 第二時大戦に勝ったとはいえ、ヨーロッパ諸国は戦争で消耗し、国民も国土も疲弊していた。そのため1950年代は、アメリカだけが輝いていた時代だと前述した。豊かなアメリカは輝く家族像をもち、まさに青春を謳歌していたといってもいい。映画は時代を反映する。青春映画と呼ばれるものが登場していた。

 スタイン・ベックの原作をもとにエリア・カザン監督は、戦後の名作の一本に数えられる「エデンの東」1955を撮っている。ニコラス・レイ監督の「理由なき反抗」1955も、おなじジェームス・ディーンを主人公にして撮っている。この時代、アメリカの鉱工業が大躍進を遂げ始める頃で、フリーウエイが全土に張りめぐらされる。工業社会の秩序が大衆化し、退役奨学金の制度も手伝って多くの大学生が誕生し始めた。同時に、リチャード・ブルックス監督の「暴力教室」1955も撮られ、高校が舞台になった映画が撮られる。高校への進学率がぐんと上がったことが判る。

 ところで、青春とは何だろう。地球上の誰でもが、青春を体験するのだろうか。わが国では、ほぼ全員が学校にいく。そのため、いつの時代でもしかも地球上の誰でもが、学校に通うように勘違いしやすい。しかし、そんなことはない。国民の誰しもがかよう学校は、田や畑以外に工場という働く場所をつくった社会、つまり工業生産を始めた近代社会に固有のものである。

 農業を主な産業とする社会、わが国で言うと江戸時代もしくは戦前まで、子供は自分の身の回りの始末が出来るくらいの年齢になると、大人より小さいが同質の仕事を担わされた。生長とともにその量は増え、成人したときは、他の大人とまったく同じ働き手に育っていた。農業を主な産業とする社会では、今日言うような全国民が通うような学校はなかった。働くことを通じて、次世代の教育が行われた。長い体験から獲得した智恵の伝達、つまり一対一でなされる教育の構造は、農耕が主な産業である途上国では、今でも変わってはいない。

 学校に通うようになると、子供たちは学校にいるあいだは、日々の労働から解放された。この学校にいる労働を猶予された自由な期間こそが、青春期と呼ばれるものである。つまり、青春という概念は、農業を主な産業とする社会には存在しない。青春は、近代の工業社会になって学校が成立したことによって、はじめて生まれたのである。ティーン・エイジャーが独自の集団としてみなされるのは、工業社会になってからである。それ以前は、小さな子供の次は、大人と同じ扱いを受ける見習いという身分になった。

 学校は知識を教えてくれたが、学校へ通うことは労働から切り離されることでもあった。つまり学校が与えてくれた青春は、日々の労働と切り離されたので、反対に労働が与えてくれる自己存在の手応えもなくなってしまった。労働する者は、働くだけで社会的な正当性を確保できる。彼(女)には、存在が社会から認められる。しかし、働かない者は、自己存在の基礎が判らない。自己存在の証明を求めて悩む。青春の悩みとは、将来の労働を捜すつまり自己存在の礎を捜す悩みだったのである。

 農業を主な産業とする社会では、男性も女性も同じ若者時代を過ごし、同じ農業労働に従事した。しかし、近代の入り口つまり工業社会の黎明期には、まず男性が学校へ入りそして就職した。とりわけ高等教育を受けたのは、男性だけだったと言っても過言ではない。ここで男性は、農業を主な産業とする社会には存在しなかった青春なるものを、女性に先立って手に入れた。そして、青春を満喫した男性は、農業には戻ってこなかった。高等教育を受けたこれらの男性が、どんな家庭を作ったかは、すでに自明だろう。前述した男女の性別による役割分担の核家族である。

 男女がともに労働力であった農業を主な産業とする社会とは異なり、工業社会になると女性は生産を支える労働力とはなり得なかった。経済力は男性だけにあった。女性たちは男性の経済的な支配下に置かれ、自らの経済力を持てなかった。だから、男性と女性では青春の意味が違った。女性にとって若い時代と成人後は、何ら異なるものではない。女性は学校に通ったとしても、学生から職業をもった社会人になるのではなく、家庭人のままだった。親の保護下から、夫の経済的支配下に移るだけだった。そのため、女性にとっては若い時代が、青春としては機能しなかった。

 学校が普及するにしたがい工業社会では、生きることに迷い悩む青春を主題にした映画が誕生する。しかし、小学校教育が普及した段階では、その国に青春が開花したとはまだ呼べない。なぜなら、この年齢では一人前の働き手にはなっていないから。大衆を相手にした映画が、青春物と呼ばれる映画を撮りだすのは、観客の多くが高校もしくは大学へと進むようになってからである。戦後アメリカでは、復員軍人への奨学金が多くの若者を大学へと向かわせた。そして、はや1950年代から大衆社会と呼ばれる時代が訪れると、青春映画も数多く誕生するのである。

 エルビス・プレスリーを主人公にしたリチャード・ソープ 監督の「監獄ロック」1957は、新しい時代の音楽が誕生したことを告げている。それまでの古典的な優雅な音楽ではなく、激しいリズムにのせて、体全体で楽しむロックが若者の音楽になった。その後、マーク・ロブスン監督の「青春物語」1957、チャールズ・ハース監督の「非情の青春」1959、エリア・カザン監督「草原の輝き」1961などと続き、ロバート・ワイズ監督の「ウエスト・サイド物語」1961のヒットは、貴族の恋だった「ロメオとジュリエット」を引用した映画で、青春と恋愛の大衆化を描く。

 青春ははかない。労働を猶予された青春は長くは続かない。時代も同様である。アメリカの青春は長くは続かなかった。マーチン・リット監督「青年」1962が、青春の行き詰まりを予告している。60年代も終わりには、はや工業社会には翳りが見え始める。アーサー・ペン監督の「俺たちに明日はない」1967が、青春の終わりを壮絶に描いてみせる。同じアーサー・ペン監督は「アリスのレストラン」1969では、徴兵から逃れようとするヒッピーを描く。アメリカは力にあふれた若い国ではなくなった。若者が国のために勇んで戦う時期は過ぎたのである。スチュアート・ハグマン監督の学園映画「いちご白書」1970以降、大学は自由を謳歌した青春をやめ、警察力によって守られていく。

 70年になると、むしろ青春を懐古するようになる。ジョージ・ルーカス監督の「アメリカン・グラフィティ」1973は、楽しかった青春を懐かしみ、終わりゆく青春への鎮魂歌だった。「ジェームス・ディーンのすべて 青春よ永遠に」1975が、レイ・コノリー監督によって撮られる頃、アメリカの青春つまりアメリカ人男性の青春は、その盛りを過ぎたことは明らかとなった。ジョン・バダム監督「サタデイナイト・フィーバー」1977にしても、ジョン・ミリアス監督「ビッグ・ウエンズデー」1978にしても、もはや青春の輝きというにはほど遠く、限られた世界で小さく自分の楽しみを見いだす若者像を描くようになっていった。

 ハーバート・ロス監督の「フット・ルース」1984のように、1980年以降も若者を主人公にした映画は作られ続ける。しかし、それは若い男性を中心とした、何か判らない心のモヤモヤを描いたものではない。そして、何年か後には働かなければならない男性、つまり社会人の予備軍を描いた青春映画ではない。むしろ、社会を構成する一部としての若者であり、社会に認知された人種としての若者を描いた映画となってくる。

 重厚長大産業が凋落し、アメリカの景気が低下するのに比例して、屈強な男性もその評価を下げていった。アメリカは80年代、教育制度から仕事のやり方まですべにわたって見直された。工業社会から情報社会への転換という、大変な苦痛に満ちた時代へと入っていくのである。そして90年代にアメリカは、社会の活力を取り戻し復活をとげる。知識集約産業が花開き、情報社会の始まりである。

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