単家族的映画論     第1部

現代アメリカ映画における家族像について     2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
8.発想の転換をめざして
 知識の生産に多くの人がたずさわる情報社会が到来し、血縁や身分それに性別などに関係なく、個人の能力が問われる時代になった。輝く核家族はその輝きを失い、男女の性別による役割分担は否定された。いまや男性だけでなく、女性も職業人である。男女は生理的には違いこそすれ、社会的にはまったく同じ生き物になった。ここで、かつてとは違う人間の生き方が、社会的に広く普及してくる。

 個人の能力が問われる情報社会では、人間たちが家庭を通じて対として社会的な接触を持つのではなく、個人として直接社会に放り出されるのは必然である。すべての個人が職業人に転換することなく、女性が核家族のなかで男性に養われていては、新たな産業社会に転換できない。女性の自立や解放が、情報社会化のバロメーターでもある。情報社会での生産つまり個人が担う知識の生産は、土地に対する労働や物を生産することよりも、はるかに生産性がいい。だから、アメリカは現在の物質的に豊かな生活を維持できる。

 映画は社会を反映する。女性の台頭をもっも良く象徴する映画は、バリー・レビンソン監督の「ディスクロージャー」1994だろう。当初セクシャル・ハラースメントなる言葉は、職制を利用した男性の女性への性差別を意味した。しかしこの映画では、女性が職制を利用して男性へ性的な関係を迫ったのである。強姦は男性の専売特許だったが、職制を利用した性関係の強制は、女性がする強姦ともいえよう。いままで受け身だった女性も、男性に対して挑発的になり積極的になってきた。この映画では、女性が男性の上司である。女性のほうが仕事上でも有能だ、という設定なのである。

 ロジャー・ドナルドソン監督がリメイクした「ゲッタウエイ」1994は、七二年の前作よりもヒロインが格段に強くなっている。スティーヴ・マックィーンとアリ・マックグロウが演じたサム・ペキンパー監督の前「ゲッタウエイ」では、スティーヴ・マックィーンがとても威張っていて亭主関白だった。妻のアリ・マックグロウをなぐっても、彼女は反抗しなかった。しかし、社会で女性が台頭するのと平行して、映画のなかでも女性が強くなった。新「ゲッタウエイ」では、亭主のアレックス・ボールドウィンに殴られたキム・ベイジンガーが、二倍にして殴り返している。

 今や女性にできないことはない。ヤン・デ・ボン監督の「スピード」1994では、大型バスを運転して空中を飛ばすのは女性である。そして、ロバート・パトラー監督の「乱気流」1997では、女性が大型ジェット機を操縦してしまう。

 工業社会の輝く家族像、つまり男女の性別による役割分担の核家族も揺らぎ始めた。厳格な制度に守られた輝く家族が、外見上の立派さを維持するために、家族の構成員に多大の精神的な犠牲を強いている。そうした現実がさまざまに見え始めた。もはや立派な家族は工業社会の支えを失っていた。輝く核家族を維持することは、家族の精神的な愛情を失うかも知れない。終生の一夫一婦制という核家族の保持は、もっとも大切にすべき内実が侵されることですらある。

 核家族の前提を失ったアメリカでは、人間関係のとり結び方が個別的になり、父や母である前に、一人の人間としてみる傾向が強くなったった。性別を越えた親の役割とか、子供のいない人の相続とか、これまででは予期しなかった事柄に、解答が求められている。そのため、旧来の性別による役割分担に頼れず、終生の一夫一婦制という核家族を枠組みにしては、もはや映画が作れなくなった。そうした難問に、アメリカの映画はきちんと答えようとし始めた。新たな人間関係を求めて試行錯誤した、その成果が次々と生み出されてくる。

 1990年のなか頃は、見るべき作品がいっせいに登場してくる。ふつうの家庭の何気ない日常風景を撮った作品だけでも、黒人女性の四人の生活を扱ったフォーレスト・ウィティカー監督の「ため息つかせて」1995がある。この映画はミック・ジャクソン監督「ボディーガード」1992に続き、ホイットニー・ヒューストンが主演した映画だが、前作と異なり彼女のワンウーマン映画ではない。

 普通の生活をする黒人の女性四人が主人公である。彼女たちが、それぞれに悩みながらも、自分で自分の生活を作っていく。この映画は、アメリカの女性が男性の経済的な庇護下になくても、いまや独力で生活できることを前提にしている。経済面における男性支配という既存の価値観が崩壊している。映画としての完成度はそれほど高くはないが、この混乱期において、戸惑いながらも明るく生きようとする女性たちに、温かい眼差しを投げかけている映画である。

 4人のうち専業主婦はたった一人だけ。しかもその専業主婦の女性が、黒人の夫から離婚されてしまう。彼女は大学まで卒業しながら、経営者の妻は家庭にいて欲しいという彼の言葉にしたがって、専業主婦として子育てに専念し夫を影ながら支えてきた。しかし、結婚11年目にして、出世した夫が会社の白人経理担当者と結婚したいので、離婚して欲しいという。青天の霹靂だった彼女は怒り狂うが、離婚裁判で大きく財産分与が認められ、それで生活ができるようになる。結婚という制度が役割をおえたのは、1990年代半ばのアメリカではすでに常識のようだ。

 男性支配の工業社会では、男性のほうから女性に誘いをかけるのが、正当なルールだとされてきた。女性から男性を誘うのは、下品なことだとされてきた。男性からの誘いがないうちは、女性は慎ましくあるのが自然なのだと、男性支配の社会はいってきた。そんなことはない。女性だって男性に興味があるのだと、この映画は素直にいう。しかし見事なまでに、結婚という言葉がでてこない。

 どこかの会社に勤めているのだろう女性は、妊娠したと判ると、さっさと相手の男性をお払い箱にしてしまう。男性の精子だけが欲しかったので、一人で子供を育てるという。専業主婦以外の三人は、フルタイムの職業をもっている。きちんとした経済力があるので、男性に頼らなくても生活には困らない。

 この映画に登場する女性は自分のお金があるから、男性の稼ぐお金をあてにしななくてもすむ。多くの女性が、男性の経済的な庇護を求めなくなったので、もはや男性の経済的な威力はその魅力を失った。養ってもらうことなど、女性は考えてはいない。女性が男性に求めているのは、精神的なつながりをもったパートナーとしての存在であり、そしてセックスの相手としての肉体的な要求だけである。男性は欲しいが、結婚はしなくてもいいという傾向は、本当に強くなった。日本の映画が、いまだに結婚を恋愛の終着点と考えているのとは、大変な違いである。

 ラッセ・ハルストレム監督の「愛に迷った時」1995では、夫の浮気をきっかけに家族を見直す。女性が男性に養われていた時代、男性が浮気をしても、女性は簡単には離婚できなかった。離婚はそのまま経済的な破綻につながりかねなかったから、夫の浮気にも泣き寝入りすることが多かった。しかし今や、経済力をもった女性にとって、離婚は充分にあり得る選択肢の一つである。

 ショーン・ペン監督の「クロシング・ガード」1995では、子供を失った痛手から立ち直れない男親を描いている。きわめてマッチョなジャック・ニコルソンが、子供を交通事故で失った父親を演じるのである。しかも、子供を失ったがゆえに人格が保てず、彼は妻にも離婚される。妻は再婚して通常の生活をおくっているが、彼は酒浸りのすさんだ生活になる。そして、彼は加害者の出所を待ち、加害者を殺そうとする。時代は本当に変わりつつある。

 子供がたくさんいて、子供が野原を勝手に遊び回っていた時代と、現代の社会は異なる。かつて子供は働き手だったり、親の老後をみるものだった。いわば用役の対象として、大人の仕事を分けて担わせるのが子供だった。現代ではどこの家にも、一人か二人しか子供がいない。今や子供は用役の対象ではない。少ない子供が、大人の精神的な生きがいになっている。子供の役割は本当に変わった。

 精神の糧である子供を奪われると、大人は今や人格崩壊にさえ至る。しかも、女性ではなく男性がそれに耐えられない。男性は観念で生きているがゆえに、精神的な支えを奪われると人格が崩壊する。外見は立派な男性が、精神的に打たれ弱い。これはきわめて現代的なテーマである。子供の存在意義の変化をとおして、男性社会が大きく変わっていく姿を、この映画はきっちりと描いていた。

 オーストラリア人女性のジェスリン・ムーアハウス監督が撮った「キルトに綴る愛」1995は、監督、原作、脚本、主な登場人物がすべて女性によって制作された。しかも主題は、女性の繋がりによる癒しである。女性の連帯を謳うこの映画は、女性が男性と同様の職業人であり得るようになった時代には、もはや時代遅れの古い感覚である。情報社会では、男女は同じように働ける。男女間に社会的な違いはない。社会は男性と女性で構成されているのだから、女性だけの仲間を指向するのは何やら不気味ですらある。男性だけの特権が許されないように、女性だけを語ることはもはや時代遅れである。

 クリント・イーストウッド監督の「マディソン郡の橋」1995では、中年女性の恋愛と不倫願望が描かれる。バルベ・シュレデール監督「判決前夜」1995では、殺人を犯してしまった子供への父親と母親の愛情表現をめぐる葛藤が描かれる。テッド・デミ監督の「ビューティフル・ガールズ」1996では、きれいなだけで許される時代への鎮魂歌が描かれる。「big night」という原題のスタンリー・トゥッチ監督の「リストランテの夜」1996は、農業を主としたイタリアから移民してきた兄弟たちが、アメリカ文明との段差に戸惑い悩み、挫折していく様子をイタリア・レストランを通して語る。どんなに愛着があっても、古い文化は容赦なく淘汰されてしまう。

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