単家族的映画論      第2部

現代アメリカ映画における家族像について     2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
おわりに
 農業が支配的な伝統的社会には、個人という概念は存在せず、すべての人が生産組織である家つまり家族に属した。そして、各人は大勢の家族や血縁の人々のために働いた。それが結果として自らの生存だった。農業は動かない土地を労働対象にしているので、それに従事する人間は、静的で安定した生活を指向した。その社会が農業を主な産業としていれば、農業が要求する倫理や道徳から、人々は離れることは出来ない。農業は男性や女性をして、どっしりとした大人の風格を養った。また、工業を主な産業としていれば、工業社会の核家族的人間像が生まれた。情報を主な産業としていれば、人間は情報産業からの規定を受ける。

 農耕社会→工業社会→情報社会へと変わるとすれば、それに対応して群の生活→対の生活→個の生活へと変わることは必然であり、それにつれて大家族→核家族→単家族と変わることも不可避である。かつてのわが国の暮らしや道徳を、男尊女卑的だとか封建的だとか言われて唾棄されたこともあった。

 しかし、封建的な生き方とは農業が要求する生き方であり、それを無視しては誰も生きていけなかった。そして工業社会では、女性の職場がなかった。そこで、男女の性別による役割分担を無視したら、人口の半分が路頭に迷った。それでは社会が立ち行かないので、性別による役割分担は不可避だった。工業社会まで、個人的な生き方は、社会的な規範と一致せざるを得なかった。男性らしくとか、女性らしくといった生き方が生まれた所以である。わが国ではまだ認知されてはいないが、情報社会には情報社会に固有の生き方がある。

 情報社会化において、わが国よりはるかに先を行くアメリカは、新たな社会の価値観をつかみつつある。サム・メンデス監督の「アメリカン・ビューティ」1999という今日的で難解な映画に、アメリカ映画人たちはアカデミー賞作品賞他四部門でオスカーを与えた。この映画の主題は、家族の崩壊でもなければ、中年男性の厭世観や退行現象でもない。新たな社会における自由が、美として結実し始めた。拘束を嫌う自由が、工業社会までの自由とは違う次元へと飛翔したのである。そして、新たな自由の体現者は、既存の制度や価値観にすがる者ではなく、浮遊する人間なのだとこの映画は主張する。

 「アメリカン・ビューティ」は家族の崩壊を描いた映画だという人がいるが、この映画では家族の崩壊はすでに当然視されており、家族の崩壊を描いたものではない。核家族が崩壊し終わったところから、この映画は始まる。かつての核家族のように、各個人が家族の一員としての役割を果たす時代は終わっている。それがこの映画の基本的な認識である。だから、核家族の崩壊は決して暗い悲劇ではない。この映画は、家族の崩壊を悲しむ必要はないと訴えている。家族の崩壊後の希望を描いているのだ。

 古き良き核家族は、父親役を果たす男性と母親役を果たす女性、そして子供の役割を果たす未成年者から成り立っていた。男性にしても女性にしても、個人である前に父親であり母親だった。核家族とは工業社会に対応した家族形態で、歴史普遍的なものではない。種の保存は対なる男女の営みによってなされる事実があるので、家族も対なる男女が作ると誤解されやすい。しかし、種族保存のメカニズムと、家族のあり方は別次元の話であり、両者は直結してはいない。種族保存は生理的な事実であり、家族や育児の方法は社会的な産物である。事実と社会的な産物を直結して考えるのは、現実と観念が分離できなかった工業社会までの思考である。

 情報社会では、事実や物が社会的な産物つまり観念と分離し、観念が観念だけで遊離する。観念が現実の根拠を離れて、観念だけで自立する。家族も同様である。今まで、家族の根拠として考えられていた種族保存が、その虚飾性を剥がされている。種族保存としての家族が、現実社会に根拠を失っている。もはや種族保存が家族を成り立たせる根拠ではない。子供を作らない家族もいるし、家族外でも子供は生まれる。だから、家族の新たな定義が求められている。

 実は今まで家族は、定義されてはこなかった。家族とは何かと考えることなく、現実的な同居が家族を家族と思わせていただけである。家族の本質を考えることは、家族を分解させかねないので、今まで家族の本質に論及されることは決してなかった。この「アメリカン・ビューティ」は、家族の本質にせまり、家族の定義をしようとする映画である。同居という事実や経済的な必要性ではなく、愛情という観念が家族を家族たらしめるのである。

 「アメリカン・ビューティ」は、核家族の核である対なる男女つまり夫と妻には相互不信と破綻を与え、核家族からは付属物と見える男女つまり子供には信頼と希望を与えている。この映画が優れているのは、核家族がすでに崩壊していると認識するがゆえに、親子という対立構造をとらないことである。「アメリカン・ビューティ」においては、四人の構成員がすべて平等で等質な存在として設定されている。ここが今までの家族像とは決定的に違うところである。

 女性も一人前の働き手となった情報社会では、工業社会とは家族の事情はまったく違う。母親という女性が、労働者として社会的に男性と拮抗する存在になったことは、家庭内においても女性は男性と同じ立場に置かれることになった。男女には、子供を産ませる生むという違いがありながら、男女の社会的な存在が等価になったのだから、等価性は家庭内へと浸透せざるを得ない。女性が女性として自立すれば、母親役を演じ続けることはできない。女性も一人の個人へと還元されてしまうのは当然である。

 女性が母親役から離れれば、男性が父親役にとどまる必要性はない。いままで成人男性と女性が、父親役と母親役をつとめたから、未成年者は子供役を演じたのだ。成人男女が両親の役を降りれば、子供は未成年者であってももはや子供役ではなく、一人の個人である。ましてや、未成年者といえども、いまや経済力がある。ここで家族が、それぞれの役割を演じる必然性は、まったくなくなってしまった。こうした家族をつなぐのは、個人として互いにたいする関心と愛情だけだが、ちょっとした諍いが起きれば、家族の関係はいつでも解消される運命にある。

 核家族は、男性が女性や子供を養うという役割があった。経済的な必要性が、核家族を最後のところで繋いでいたから、男性が飲んだくれでも、女性が家事に不適格でも、家族は成り立った。経済的な必要性によって、愛情が冷めても家族は結集を続けた。極端に言えば、愛情がなくても経済的な必要性があれば、家族は家族たり得た。だから、経済的な扶養をしない男性や、家事を担当しない女性には、社会的な叱責がとんだ。もちろん、家庭的な責任をきちんとはたしている両親から逸脱する子供には、子供役を果たせという社会的な圧力がかかり、子供は家庭内にとどまるように強制された。こうした枠組みは、情報社会化によってすべて雲散霧消した。加齢が豊かな経済力を保証しない。家族を繋ぐ経済的な必要性は、もはや存在しない。

 各人が果たすべき役割からの適不適で、正否が計れた核家族の時代から、個人が個人のままで存在する単家族の時代へと、時代は転換している。経済的な自立には、精神的な不安やストレスがともなうものであり、男性は今までそれに耐えてきた。女性も自立をめざす以上、精神的な不安やストレスにさらされるのは当然である。子供には経済的な自立志向はないはずだが、親役割を果たす大人がいなくなった家庭では、子供が自己を探して浮遊するのも必然である。自立は経済性を内包するから、この映画でも娘は子守で3千ドル稼いでいたし、隣家の息子に至っては麻薬の密売で4万ドルを稼いでいた。

 経済的な必要性が人間関係を確保した核家族の時代、それは実に幸せな時代だった。核家族の時代には家族たちを愛するための特別な努力をしなくとも、家族員としての役割さえ果たせば円滑な人間関係が維持できた。役割や地位が人間関係を保証したのだ。工業社会化しつつある東南アジアでは、定期的な収入があると言うだけで、今でも父親として男性は一目置かれる。しかし情報社会では、父親や母親の役割を果たそうにも、果たすべき役割がない。

 情報社会の単家族では、他者を愛する心だけが、人間関係を繋ぐのである。それは生き物の形をしているものを愛するという、純粋な愛情である。経済性など何の支えもない精神性だけが、人間関係をつくり維持するのである。純粋な愛情の時代であることを、この映画の製作者たちはよく判っている。そして、それを評価してアメリカの映画人たちは、この作品にオスカーを与えた。脱帽である。

 情報社会の入り口に立って、今やっと個人が個人のままで、職業に就けるようになった。誰でも独力で、経済生活が営めるようになった。ここでは社会的には男性も女性も違いはない。社会的に男性と女性にたいして、別々の倫理や生き方を要求することは時代錯誤になった。男女差が解消したことは、同時に個人の次元では、何にも捕らわれない生き方が可能になったことである。男性がより男性的であっても良いし、女性的であっても良い。もちろん、女性がより女性的であっても良いし、男性的であっても良い。性別による役割分担が解消したことは、言い替えると、個人的存在と社会的な存在の連関が切れたことを意味する。大人と子供の区別さえ消滅しようとしている。社会的な規範は、個人の生き方を強制しなくなった。

 情報社会の先端を走るアメリカは、人間関係もそれを反映してきわめて個人的になってきた。そして、家族関係も男女の対ではなく、個人がその中心になり始めた。様々にひずみを指摘されるアメリカ社会だが、アメリカ映画はアメリカ社会を忠実に反映している。情報社会化は、わが国でも急激な勢いで進んでおり、アメリカの通った道を追うことは明白である。アメリカ映画の描く主題を冷静に見つめることは、近い将来のわが国を見通す大きな一助である。

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