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現代アメリカ映画における家族像について 2001年3月10日記 |
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目 次
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4.ただ愛情による家族へ 輝く家族像が生きていた「花嫁の父」1950では、育て上げた娘にたいする父親の複雑な感情を描いていた。しかし、チャールズ・シャイヤー監督の「花嫁のパパ」1991そして「花嫁のパパU」1995では、父親は決して立派ではない。親が子供を養うという経済的な背景が映画から消失し、父親はまるで子供の友達である。むしろ父親が子離れできない。しかも、「花嫁のパパU」では娘と一緒に母親が妊娠し、父親は子供と同時に孫をもってしまう。もはや親子は上下関係ではなく、横並びの関係である。 96年には新たな家族像の創造にむけて、記念すべき映画が何本か生まれている。フランスとイタリアによって共同製作されたエドアール・モリナロ監督の「mrレディ mrマダム」1978を、リメイクして生まれたマイク・ニコルズ監督の「バード・ケージ」1996はその嚆矢であった。20年も一緒に生活しているゲイのカップル、アーマンド(ネイサン・レイン)とアルバート(ロビン・ウイリアムス)は、ドラッグ・クイーンのナイト・クラブを経営している。男役のアーマンドが経営者兼舞台のディレクターで、女役のアルバートはそこの花形役者である。ゲイ夫婦の一人息子ヴァルが、超保守的な上院議員の娘と結婚することから、映画の主題にはいる。 男役をやっているアーマンドは、かって女性の恋人とのあいだに子供をもうけた。しかし、その恋人つまり生みの母親とは、出産以来会ってもいず、ヴァルは母親役のアルバートによって育てられた。結婚する相手の父親は、旧来の道徳を死守することをモットーとした上院議員である。彼らには、自分の両親たちのような生き方は、絶対に理解してもらえないと心配した息子は、結婚相手の両親が来る日だけはストレートの家庭を演出してくれと頼む。しかたなしに承諾した父親は、室内の模様替えを始め、家具などすべてをストレート風に改装する。 問題は、母親をやっているアルバートである。女性的な仕草の彼を、叔父ということで紹介しようとするが、すると今度は母親がいない。慌てて生みの母親をたずねて、彼女に同席して貰うことにする。しかし、生みの母親が交通渋滞に巻き込まれて、対面の会食に間に合わない。 アーマンドが冷や汗をかいているあいだに、母親役のアルバートがいつものように女装し母親を演じて登場する。意外なことに上院議員とアルバートは話が会う。そこへ遅れてきた生みの母親が登場、上院議員は二人も母親がいることに説明をもとめる。観念した息子は、育ての親つまりゲイの男性アルバートを母親だと紹介する。「mrレディ mrマダム」では夫役であるアーマンドがアルバートを紹介したが、「バード・ケージ」では息子がゲイのアルバートを自分の母親として紹介する。 生みの親より育ての親、血縁より精神性のつながりを優先するこの映画で、新たな時代の家族の原則が提示された。息子のヴァルが、ゲイの男性を母親だと紹介したあと、もう一人の女性を生みの親だと紹介する。生みの親と育ての親が異なることは、いままでだってあった。ただ両方とも、女性だった。それが、いまや家族を構成する原理は、性別を問わなくなった。子供を生むことこそ女性にしかできないが、育てるのは男性でも女性でも、子供に愛情さえもっていれば、誰でもかまわないとこの映画はいう。 この映画によって、家族の絆は性別とか血縁という属性によるのではなく、個人と個人をつなぐ純粋に精神的な愛情なのだと宣言された。これからも愛情とはどうあるべきか、といった家族論はあるだろうが、対なる男女だけが家族を作るという時代錯誤はなくなる。家族の愛情は精神にだけ支えられるという当たり前のことが、本当に長く当たり前に認められなかった。 情報社会になって、人間が自然の支えを失ったと同時に、愛情という精神活動も自立した。ゲイの解放とか、単家族の誕生や家族の拡大という方向の映画はつくられても、古典的な核家族を維持する方向の映画は、もはやアメリカにはない。情報社会をすすむかぎり、単家族化する方向は変わらない。 アベル・フェラーラ監督の「フューネラル」1996は、家族をめぐるきわめて哲学的な映画で、素直に肯定できない今日の家族関係が主題である。血縁を大切にするイタリア系ギャングの世界を舞台にしても、兄弟の復讐が主題というのでは、もはや現代人には絵空事に見えて映画にならない。血縁の愛情にもまれて復讐する者たちの心理を、家族愛や兄弟愛と絡ませ、狂気とか分裂症へと結論が展開していく。狂気を含んだ密度の濃い画面が、平穏な日常性と狂気を含んだ日常性の裏側をよく表現していた。 リチャード・ベンジャミン監督の「メイド・イン・アメリカ」1993と同様、デヴィッド・o・ラッセル監督「アメリカの災難」1996は、養子として育ったメル(ベン・スティラー)が、自分の血縁の親を捜し始める話である。メル夫婦、養親、間違いだった母親、間違いだった父親、血親、ゲイ夫婦、精神科医など、いかにも現代アメリカを象徴する人間を、より誇張して登場させる。人種、地域、世代、階級などを上手く反映させて、アメリカの混乱が良く見えてくる。 ラッセル監督は、この混乱を否定しない。ごちゃごちゃで災難だらけだけれど、これがアメリカであり、異質な人間が精神的なつながりによって、社会をつくるのが現代だと言う。家族とは血縁ではなく、精神的なつながりという愛情がすべてだと結論づける。生みの親より育ての親という結論は、「バード・ケージ」と同じである。 最近の映画としては、ジェリー・ザックス監督の「マイ・ルーム」1996は、例外的に血縁の家族を守ろうと古典的な主張をしている。手術の時に必要とされる輸血適合者は、血縁者のほうが適性が高いから、血縁の家族にはそれなりの意味がある。この映画は、その血縁を守れという生物の自然性にもとづいた主張をもっている。出演しているロバート・デ・ニーロが、理想と考える家族像が感じられる。 家族が崩壊し、頼りにすべき基準がなくなっている現在、彼は血縁こそ護るべきものだと考えているようだ。核家族という古き良き家族形態が、すでに常態でないことはロバート・デ・ニーロも知っている。だから彼は、何か信頼できるものを捜している。それが血縁の「マイ・ルーム」である。しかし、家族が崩壊しているから、血縁という自然性にしがみつくというのでは、あまりにも人間不信であり反時代的である。 肉体的な生理の世界では、白血病に限らず遺伝的な相似性が大きな意味をもつ。輸血や臓器移植の適応確率は、近親者のほうが高い。血液型とか体質とかは、遺伝的な要素が大きく、移植適合性は血縁者の方が高いことは事実である。異なった種のあいだでは、同じ赤い血液でもその構造は違うし、体の構造まで異なるのは自明である。類似した要素をもつ生物のほうが、近い種であることは当然である。そうして種は発達してきた。ロバート・デ・ニーロはそうした高い確率が、家族や人間関係の根拠を提供すると考えているのだろう。 しかし、血のつながりといった生理的な事実は、社会的な人間関係まで規定しないというのが、差別を克服する情報社会の道徳である。個人的にはいかなる存在であろうと、個人の性別や身分といった属性や人種などは、社会的な立場とは無関係である。どんな人間でも平等なのだ。だからこそ、身体障害者の社会進出があった。だからこそ、肉体的には非力なままで、女性の職場進出があった。だからこそ、男性が男性を愛してもいいし、女性が女性を愛してもいいというゲイが、社会的にその存在を認められるのだ。生理的な特性と社会的な存在は別物である。生理的な事実と社会的存在のあいだの距離を、計れるようになったのが情報社会である。 一緒に暮らす人々つまり家族はもちろん大切だが、家族とは血縁によるものばかりではないという確認こそ、現代の社会が到達した結論である。そして、家族を保証するのは血縁ではなく、人間の形をした生き物に対する精神的な繋がりが、家族をつなぐもっとも大切な基盤である。無形の精神的なつながりを重視するのが、ゲイや連れ子そして養子まで許容する現代の家族である。情報社会の家族関係は、むしろ血縁以外の純粋な愛情によって支えられている。 腕力優位という自然の現象が、社会的な支配概念ではなくなった。肉体的な非力さを、男女の社会的な違いとしなくてもすむようになった。だから、女性やゲイそして身体障害者の台頭があった。家族の崩壊が血縁によって救われるのでは、人間のつくる集団である家族が自然性に支えられることになる。それでは、女性・身体障害者やゲイの社会的な台頭が、論理的な根拠を失う。ロバート・デ・ニーロはそれに気づいていない。 すべての人間が家族だという「バード・ケージ」や「アメリカの災難」の方がはるかに寛容で、未来指向的である。次世代を思う彼の誠意ある映画製作には敬意を表するが、この映画は主張に限らず、演技が堅く映画としてもすでに古い。 ジェームス・l・ブルックス監督によって83年に撮られた「愛と追憶の日々」の続編として、「夕べの星」1996がロバート・ハーリング監督によって撮られた。この映画は1980年から始まるが、女性の解放に方向性が定まった現代とは異なり、当時はまだ、なぜ女性たちが煩悶するするのか、その原因は不明だった。女性の人生に対する問いが、さかんに発せられていた時代である。とりわけ専業主婦は、誰のための人生だったかと憂鬱になった時代だった。時代の変化が、この映画ではよくわかる。同居する人々との繋がりを支えるのは、血縁や社会的な身分ではなく、ふれ合う人々の愛情こそ最も大切なのだと、この映画は前作とは趣の異なった主張を訴える。 |