単家族的映画論    第1部

現代アメリカ映画における家族像について     2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
2.叛逆する映画の誕生
 1950年代のアメリカは、政治や経済の面では繁栄を誇ったが、映画となると事情はまるで違った。庶民の生活感から離れた映画は凋落が著しく、作られる映画も活気がなく、西部劇とミュージカルでお茶を濁していた。マイケル・アンダーソン監督「80日間世界一周」1956、ケン・アナキン、ベルンハルト・ビッキ、アンドリュー・マートン、エルモ・ウィリアムズと四人の監督がメガホンをとった「史上最大の作戦」1962や、ロバート・ワイズ監督「サウンド・オブ・ミュージック」1965などがヒットしてはいたが、観客動員数は減少を続けていた。

 テレビの放送局へ売るための古い映画も底をつき、映画会社は撮影に使われた戦車や、有名俳優が着用した水着などを売った。そのうえ、機材や撮影スタジオを売ったりして、すべての映画会社は青息吐息だった。外部の資本が映画会社に入り、映画産業は再編成されていく。まず、rkoが売却されたうえで消滅。一九五九年にはユニヴァーサル映画会社が、mcaに買収される。そして後年、mcaはわが国の松下に買収され、シーグラムへと転売される。少し時代は下るが、コロンビア映画会社がまずコカ・コーラへと売却され、そして、わが国のソニーへと売却されたのは周知であろう。

 1960年も後半にはいると、ハリウッドの映画も古典的な様式に頼って、現実離れした映画ばかり作ってはいられなくなった。西部劇やミュージカルは固定的な客層を確保できたが、古き良き家族像に基づいたこうした伝統的な映画では、客足を引き止めるのは難しかった。映画の製作会社は、危機の立てなおしに躍起になった。そうしたなかアメリカ映画には、既成の秩序や権威を問いなおす新しい動きが始まった。叛逆する映画の誕生である。それらは後年、アメリカン・ニュー・シネマと呼ばれ、アメリカ映画の最盛期とすら言われるのだが、当時は決して主流ではなかった。むしろ粗野で、下品な映画ですらあった。

 ウォーレン・ビーティが制作・主演し、アーサー・ペンが監督した青春ギャング映画「俺たちに明日はない」1967が、アメリカ社会に与えた影響は大きかった。「俺たちに明日はない」は、今日に続くリアリズムを打ちだした初めての作品である。この作品からアメリカはニュー・シネマの時代に入ったといわれる。

 映画の舞台を1930年代の大不況時代に設定していたとはいえ、この映画は平和愛好の古典的な家族像を踏まえたものではない。この映画の主人公ボニー(フェイ・ダナウェイ)とクライド(ウォーレン・ビーティ)は、いきずりの二人であり銀行強盗である。彼等は真っ当な生活をするサラリーマンではない。彼等は古き良き秩序への反逆者である。確立された権威がまだまだ強固だった当時、警官隊からの一斉射撃によって、蜂の巣にされて殺されるのは自然の結末だった。

 同じ年につくられたマイク・ニコルズ監督の「卒業」1967は、敬虔な結婚式を蹴飛ばし花嫁を強奪して終わる。大学を卒業し社会に出て働くまでの、猶予された時間にたいする疑いが、この映画の底に流れている。優秀な学生として大学を卒業しても、自分はいったいこの先どうなるのだ。先の見えてしまったサラリーマン人生に疑問を投げかける。アメリカン・ニュー・シネマがつくられ始めたこの頃から、輝ける家庭生活やアメリカの豊かな経済生活に、徐々にだが疑問が投げかけられ始め、秩序への叛逆が始まる。リチャード・レスター監督は「華やかな情事」1968で、若い人妻を中心にした三角関係を描き、愛とは何かを問うている。

 新しいアメリカの映画は、新たな社会の動きを反映して、徐々に新しい映画を生みだすようになっていた。フランク・ペリー監督の「泳ぐひと」1968は、当時の繁栄を極めた家庭生活を、見せかけだけのものと鋭い先見性で喝破した。しかし現実の社会では、まだまだ愛情によって男女は結ばれ、男女の性別役割を果たすのが前提とされていた。家族の変化は、社会の変化より遅れてやってくる。家族の崩壊は、まだ目立つほどには始まってはいなかった。

 1968年のフランスにおける五月革命から始まった既成の権威に対する問い直しは、世界中の先進国へと燎原の火のように広がった。豊かなアメリカでも、美しくできあがった輝ける社会や家庭生活に、疑いの念をもつ者がではじめた。若き大統領ケネディのかかげたニュー・フロンティは挫折。ベトナム戦争の泥沼化。黒人は差別の廃絶を求めて、各地で過激な活動を始めた。同時に後年フェミニズムに転化する運動、つまりウーマンリブと呼ばれた女性運動も、男性支配の秩序に叛逆の狼煙を上げ始めていた。

 女性が自分の生き方を、地道に見直した映画に「ナタリーの朝」1969がある。フレッド・コウ監督が撮ったこの映画は、容姿に自信のない女性ナタリー(パティ・デューク)が、悩みながら青春期をおくり成長する様子を暖かく描いている。男性たちにもてる美人の友だちを横目に、グリニッジ・ヴィレッジでナタリーは一人暮らしを始める。そこで彼女は、自分の力で生きることの素晴らしさを知り、大切なのは容姿ではなく精神の輝きだとさとる。妻子ある画家を愛し、親の反対にもめげず、彼女は自分の世界をつくっていく。確立された輝く家庭を打ち破り、自立しようとするナタリーに、フレッド・コウ監督は精一杯の声援を送っている。

 アメリカ人は自国のあり方に疑いを持ち始めた。アメリカ映画もそれを受けて、社会にたいする懐疑の目を持ち始める。イギリス人のジョン・シュレンジャー監督は「真夜中のカーボーイ」1969で、19世紀のイギリスが極端な物質主義だったことを忘れて、アメリカを物質万能社会とシニカルに描く。アメリカン・スピリットをもった正義感あふれるカーボーイは、独立以来アメリカの建国を担ってきた。しかし、彼等はもはや生き延びることはできない。工業が主な産業である社会では、どこでも物質主義にならざるを得ないのである。

 既成の秩序に対する問い直しから、叛逆の運動へと転換するのには時間がかからなかった。輝く家族像に支えられた豊かな社会は、まやかしで偽善的な正義が蔓延している。経済的な繁栄のなかにも、若者たちは胡散臭さを感じていた。様式化された正義は、支配者のものである。サム・ペキンパー監督は「ワイルド・バンチ」1969で、善良な勧善懲悪を派手な暴力で暴いてみせる。

 秩序から落ちこぼれた者は、社会に背を向け、麻薬やlsdに安らぎを求めた。豊かなアメリカという神話の崩壊は、デニス・ホッパーが監督をした「イージー・ライダー」1969によって象徴的に描かれる。出演したピーター・フォンダや監督はともに、麻薬やlsdの体験者だったし、画面も麻薬的な幻覚に彩られていた。「イージー・ライダー」は、懐疑的なアメリカ社会の空気を、ロード・ムービーという手法で見事に切ってみせたのである。

 確立された秩序は、強固に立ちはだかる。この頃、わが国では全共闘運動に投じた学生たちが、機動隊への玉砕的な攻撃を繰り返していた。「明日に向って撃て」1969ではジョージ・ロイ・ヒル監督が、ブッチ(ポール・ニューマン)とサンダンス(ロバート・レッドフォード)という二人組の銀行強盗の話にたくして、豊かなアメリカの屈折した心理を描いた。この映画でも、心優しき主人公たちはアメリカ国内からボリビアへとながれ、最後には警官隊に包囲されて玉砕を遂げる。

 この頃から、人々は男女の性別役割に支えられた家庭や家族にも、疑問符を投げかけ始める。かつて市長をつとめ、ローターリークラブの会員でもあり、名声の高かった父親が、年老いるに従って頑固になっていく。ギルバート・ゲイツ監督は「父の肖像」1970で、貧苦の若者時代をすごし、苦労して子供を育て上げた父親の孤立を描く。農業が主な産業である社会では、親孝行が何よりも是とされていた。世代を越えて受け継がれるのが農業であり、家族への価値観も農業に従っていた。アメリカは輝く50年代を経験していたとはいえ、親子の関係は必ずしも工業社会に適応していなかった。

 社会が流動化してくると、子供は親のもとにいるとは限らない。男性だって結婚によって親のもとを離れる。苦労して子供を育て上げた父親にしてみれば、子供からその苦労を返してほしい、つまり老後をともに暮らしてほしいと思うのは自然だった。しかし、工業社会では子供は新たな社会を支えるものであり、親の元にとどまっていては社会が発展しない。子供には子供の人生があり、それが次の社会をつくっていく。親の老後のために、子供の人生が犠牲になるのは肯定されない。自分の人生に自負のある父親は、新たな社会をになう子供を解き放つことができない。父親は一人寂しく養老院で死んでいく。親子という家族が軋んできた。遅ればせながら家族の見直しが始まった。

 秩序ある美しき家庭生活からはみだして、ウッドストックに集まった40万人の若者たち。ヒッピーといわれた彼等は、自らをフラワーチュウドレンと称し、1969年8月15日から3日間、平和と愛情を口にして人間解放を訴えた。その記録ともいうべき映画がマイケル・ウォドリー監督の「ウッドストック」1970である。

 アメリカはベトナムの泥沼に完全にはまっていた。ロバート・アルトマン監督の「m★a★s★h・マッシュ」1970が、それまで誰も疑うことのなかったアメリカの軍隊を痛烈に皮肉った。「m★a★s★h・マッシュ」は、ジョン・ウエインが監督・主演した「グリーンベレー」1968のようなベトナム賛戦の映画ではなく、明らかにベトナム反戦の意志をもった映画だった。

 戦争に負けたことのないアメリカが、ベトナムで無益な戦争に足を取られ始めた。ベトナム反戦運動がさかんになる。学生たちの闘争を描いたスチュアート・ハグマン監督の学園映画「いちご白書」1970が、つくられるのも一九七〇年である。既成の権威に叛逆し、自分の生き方を探す動きはとどまるところを知らなかった。しかし、価値観の大きく揺れたこの頃、反対に頑固で信頼できる父親像を求めてもいたようである。第二次世界大戦の猛將と謳われたパットンの人生を描いた「パットン大戦車軍団」1970が、フランクリン・j・シャフナー監督によって撮られている。

 アメリカでは恋愛結婚の歴史は長い。今日なら恋愛と結婚は別物だと考える。しかも、恋愛にも結婚生活にも、ともにセックスが不可欠だとみなしている。しかし、アメリカが輝いていたこの時代まで、恋愛の終点が結婚だった。結婚するために恋愛があったといってもいい。この時代の恋愛にはセックスは含まれていなかった。いくら愛し合っていても結婚するまで、肉体関係を持つことはためらわれた。つい最近まで婚前交渉の是非が問われたし、法的な裏ずけのない同棲も市民権を得てはいなかった。結婚生活のなかでだけ、正しい肉体関係が営まれた。

 恋愛という精神的な愛情ばかりでなく、結婚という形式を守ることが大切だった。しかも、恋愛は学生という社会人の予備軍がするものとされていた。青春時代に熱烈な恋愛のすえ結ばれた二人は、子供を作って堅実な家庭つまり核家族を作ることを良しとされた。結婚によって、名実ともに社会人になった。そして、男女の性別による役割分業に支えられたその家庭は、なによりも経済的に豊かだったはずである。

 恋愛結婚のすえに誕生した二人の愛の核家族は、終生にわたって添いとげられるべきものだった。一夫一婦制を終生にわたって守ることが、愛情を保証し、二人の幸せな人生を保証すると考えられていた。この時代、離婚もそれほど多くはなかったし、婚外児の誕生も少なかった。結婚という制度が愛情を保証する、そして結婚という制度が経済生活を確保する、と多くの人々に信じられていた。しかし、ベトナム戦争で崩れゆくアメリカの栄光を、経済的な繁栄よりも愛情に求める傾向は強くなっていく。アーサー・ヒラー監督の「ある愛の詩」1970は、伴侶の死をこえての純愛を描く。

 制度に対する疑いは激しくなり、混沌は深まるばかりだった。リチャード・c・サラフィアン監督の「バニッシング・ポイント」1971、ゴードン・パークス監督の「黒いジャガー」1971、ウイリアム・フリードキン監督の「フレンチ・コネクション」1971、ドン・シーゲル監督の「ダーティハリー」1971、ピーター・ボグダノヴィッチ監督の「ラスト・ショー」1971、ジェリー・シャッツバーグ監督の「哀しみの街かど」1971と、完成された制度への懐疑はますます強まる。映画のなかに暴力が登場し、同時に家族や人間関係への問い直しも進んでいく。

 1971年で特筆すべき映画は、狂った社会の暴力的な側面を描いたスタンリー・キューブリック監督の「時計じかけのオレンジ」1971だろう。この映画では、気軽に歌を歌いながら、激しい暴力が振るわれる。善悪がはっきりと分かれていた時代、正義の旗のもとで行使される暴力は、正義の行使に他ならなかった。正義と暴力は幸福な同居をしていた。しかし、暴力が行使される意図はどこにあれ、暴力は暴力以外の何物でもない。単純に正義を信じることができた時代は、過去のものになった。

 マイク・ニコルズ監督の撮った「愛の狩人」1971の原題は「carnal knowledge」で、肉欲の知識つまりセックスが主題である。この作品は、戦後の四半世紀のあいだで、男性の性に関する意識が、厳格な一夫一婦制からいかに変わったかを描いている。若い学生時代そして社会人になってからと、大学時代からの親友ジョナサン(ジャック・ニコルソン)とサンディ(アーサー・ガーファンクル)の二人をとおして、結婚・離婚そして男性の性生活がどう変わったかを描く。マイク・ニコルズ監督は現実から距離をとって、アメリカを冷静にシニカルに見る。

 経済的な繁栄が失われ始めても、親子の断絶や父権の喪失また家族の崩壊といった価値観の転換は、単線的には進まない。社会の動きは行きつ戻りつしながら進んでいく。今までの価値観に従って生活している人は多いし、新たな価値観が生まれているわけではない。経済の減速とともに、家計を支えた男性の地位が危うくなっても、男女の性別役割に代わるシステムはまだない。社会が不安定になれば、必ず揺り戻しがくる。矛盾した本心をいえば、大衆は安定をも待っている。

 家長を中心とした家族の結びつきを強く描いた「ゴッド・ファーザー」1972が、ヒットするのも理由があった。引き続きフランシス・f・コッポラ監督は、「ゴッド・ファーザーU」1974を撮っている。そして、社会に出て働くまでの猶予され時間を謳歌するジョージ・ルーカス監督の「アメリカン・グラフィティ」1973のような青春物もたくさんつくられた。しかし、男性が女性を養うという構造は変わっていなかったから、ピーター・フォンダ監督の「さすらいのカウボーイ」1971やディック・リチャーズ監督の「男の出発」1972と、この時代の主人公は男性が多かった。

 精神病院でのロボトミー批判から、人間の自由と尊厳を描いたミロス・フォアマン監督の「カッコーの巣の上で」1975は、屈強な男性ジャック・ニコルソンが主人公だった。マーチン・スコセッシ監督の「タクシー・ドライバー」1976も、もちろん男性のロバート・デ・ニーロが主人公だった。そして、この頃の映画製作者たちは、ほとんどが男性だったことは言うを待たない。

 この時代には珍しく、女性を主人公にしたマーチン・スコセッシ監督の「アリスの恋」1975は、夫を交通事故で失った女性が新たな出発をするまでを描いたものである。1970年代も中盤になると、ウーマンリブの影響もあり、映画の主人公も女性へと目がむき始めた。専業主婦の不安定な精神状態を描いたジョン・カサベデス監督の「こわれゆく女」1975は、後年わが国でも取り上げられる妻たちの思秋期を思わせる。輝く家族像が崩れるなか、女性が家庭内に家事労働の専従者として閉じこめられる核家族、いわば既成の家族像に女性が違和感をもち始めたのである。

 女性劇作家リリアン・ヘルマンの回顧録を映画化した「ジュリア」1977が、フレッド・ジンネマン監督によって撮られる。ジェイン・フォンダとヴァネッサ・レッドグレイヴという反体制運動家の女優を主人公にしたこの映画は、女性も社会の主人公になり始めた時代の空気を反映していた。そして、ベトナム戦争の後遺症を描いたハル・アシュビー監督の「帰郷」1978では、戦争で傷付いた男性の癒しに、女性の役割が大きく描かれていた。数こそ少ないがこの頃から、女性の異議申したてつまり男性支配に叛逆する映画も撮られ始めていた。

 女性を主人公にした映画を二本(「帰郷」を入れれば三本)あげたが、この時代はまだまだ女性の立場は弱かった。90年代になっていれば想像もつかないことだが、ラモンド・ジョンソン監督の「リップスティック」1976では強姦された女性が、むしろ加害者であるかのように描かれた。そして、ジョン・バダム監督の「サタデーナイト・フィーバー」1977が描くように、男女関係において主導権をとるのは男性であり、ましてや性関係において女性が自主的に行動することは許されてなかった。

 一夜の伴侶を捜して女性が男性を渉猟するリチャード・ブルックス監督の「ミスター・グッドバーを捜して」1977も、男性支配の秩序への叛逆する映画といっていいだろう。男性がもっていたセックスの主導権を、女性がとろうとしたのである。しかし、離婚している者や独身者は不自然に見られていたし、男性が女性に性的な快感を与えると考えられていたから、性的な快感を追求した主人公の女性テレサは、悲劇的な最期に描かれざるを得なかった。ブライアン・デ・パルマ監督の「殺しのドレス」1980でも、行きずりの男性とセックスした人妻は、その直後に殺されている。

 映画におけるセックス・シーンを決めるのは、現実の個別的な男女が、いかなるセックスをするかによってではない。映像としてのセックスは、社会における多くの人がイメージするセックス観の反映である。男女が性別によって違う役割をにない、男性が女性を養うのが当然とされる、言いかえると、女性は男性から働きかけられる存在とされる限り、女性は客体でしかない。女性が客体である限り、女性はセックスの主導権を持てない。女性が客体である社会で描かれるセックス・シーンは、男性が上で女性が下になることが多い。女性も主体となって、男女の対等化が社会に普通の考えとして普及しなければ、セックス・シーンの転倒はおきない。

 女性が映画のなかでのセックスの主導権を手にするためには、女性も男性と同じように欲情する人間だと、社会が認めなければ不可能である。女性が養われる存在、つまり社会において女性が客体である限り、映画の中で女性が自ら欲情することは許されない。女性がセックスを好きだと主張できるためには、女性が独自に経済力をもたなければ実現しない。そのため女性が、積極的にセックスする映画が登場するには、長い時間がかかった。女性が男性と対等化されたのを表す映像表現は、女性が男性の上になるシーンである。20年後の1990年代になると、ベッドで女性が男性の上になる映画がたくさん登場してくる。

 夫の浮気から離婚・次のめぐり合いとポール・マザースキー監督の「結婚しない女」1978は、制度としての結婚が女性からも忌避され始めたことを描いている。ウッディ・アレン監督は「インテリア」1978で、30年も一緒に暮らした夫婦が離婚、家族が崩壊していく様子を描いている。ロバート・アルトマン監督は「ウェディング」1978で、大富豪の厳粛な結婚式を皮肉りながら、名門一家の混乱と放埒な生活を描く。

 クローディア・ウェイル監督の「ガール・フレンド」1978は、女性にとっての夢、友情、結婚が変わりはじめていることを描いている。女性教師のセックスをあつかったマービン・チョムスキー監督の「さよならミス・ワイコフ」1978も、女性が自立へと旅立つ前の映画といっていいだろう。アラン・j・パクラ監督の「結婚ゲーム」1979は、女性の自立により離婚された男性の話である。

 女性が主人公になった映画では、シガニー・ウィーバーが異様な生命体と戦うリドリー・スコット監督の「エイリアン」1979も忘れることはできないが、これはむしろ女性であることを怖いネタに使ったホラー映画である。幽霊映画の主人公が女性でもあるように、恐怖映画では女性でも主人公になれた。しかし、時代はとんでその七年後になると、ジェームズ・キャメロン監督の「エイリアン2」1986では、同じようにシガニー・ウィーバーが主人公を演じながら、男性顔負けのアクション映画になっている。そして、デヴィド・フィンチャー監督の「エイリアン3」1992では、主人公のシガニー・ウィーバーはスキン・ヘッドになり、女性がきわめて硬派に描かれている。この20年間、女性はたくましく変身したのである。

 アメリカン・ニュー・シネマが全盛をきわめた70年代は、秩序を疑い既成の権威に叛逆する映画がたくさん作られた。叛逆する映画の誕生は、新たな時代への胎動が始まっていたことを意味する。それらの多くに激しい暴力が登場するのに象徴されるように、その主人公はほとんどが男性だった。しかし、男性の暴力シーンが画面で目立ったといっても、社会が混沌として既成の価値観が崩壊してきた以上、輝く家族像もそのままでいられるはずはなかった。男性が職場での労働をにない、女性が家庭での労働をになう、性別による男女の役割分担が問い直されることは明らかだった。

 1970年代では、特記すべきことがもうひとつある。それは、現場からたたき上げてきた職人気質の監督に代わって、フランシス・f・コッポラ、ジョージ・ルーカス、スティーヴン・スティルバーグといった、大学の映画科を卒業した人間が監督として登場してきたことである。出演する俳優中心の古典的な映画製作から、監督の制作意図つまり主題優先へと、映画製作のあり方が転じていったことである。それは映画が、現実離れした綺麗なだけの娯楽だけではなく、社会的な眼をもった思想や哲学を語るものへと変身することをも意味した。

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