単家族的映画論       第2部

現代アメリカ映画における家族像について     2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
6.女性の自立後とは
 「ディスクロジャー」「カット・スロート・アイランド」「giジェーン」と、肉体的にも強い女性が登場した。もちろん経済的にも、女性は自立しつつある。ビリー・クリスタルは自ら監督をして「彼と彼女の第二章」1995で、恋愛のすえにめでたく結婚にこぎつけた男女の結婚生活を描いている。エレンは夫と離婚して、ミッキーと結ばれる。しかし、共同生活はなぜかしっくりこない。今や結婚がゴールではない。

 女性の映画監督は、身近な主題をあつかう例が多かったが、1990年代も半ばになると雄大な構想を見せる作品も生まれてきた。1999年の大晦日を描いた「ストレンジ・デイズ」1995は、キャスリン・ビグロー監督という女性がメガホンをとっている。大胆な映像をみせるこの映画は、すでに女性監督の力量が男性のそれと同等になっていることをうかがわせる。すべてにおいて男性と対等になりつつあるアメリカ女性だが、女性の自立とはこれまで誰も経験したことがない世界である。未知の世界に入っていくには、不安がつきものである。

 メアリー・ハロン監督の「i shot andy warhol」1996は、フェミニズムの先鋭だったヴァレリー・ソラナスへ捧げる賛歌である。アンディ・ウォーホールを狙撃し、失意のうちに死んでいったヴァレリー・ソラナスの映画化は、女性監督の誰かが必ずしなければならない仕事だった。フェミニズムの先蹤者に対する礼儀である。ヴァレリー・ソラナスとこの映画によって、女性運動は肉体の桎梏から切れて、精神の自由を獲得した。

 ヴァレリー・ソラナスは、それまでの男性支配の社会に根底から反逆した。現在でこそ、女性理念によるフェミニズムは理解可能だが、当時はまったく理解の外だった。どんな新たな理念も、まず現存する理念への反逆という形で登場せざるを得ない。彼女は、男性支配を男性の肉体による支配と捉えた。これは正しかった。フェミニズムを謳う他の多くの女性たちが、肉体以外の理由に男性支配の原因を求めたのに対して、彼女は屈強な肉体による支配が男性支配の根幹であると考えた。それはまったく正当だった。

 1960年当時、時代状況が女性の台頭を許しているのだと、認識するには早すぎた。彼女が名乗ったscum(the society of cutting up men)は、男性支配に直接反逆した。男性の肉体に、女性の肉体を対置し、男性支配を弾劾した。ここからは、女性の肉体の賛美が生まれるし、女性性の復権が導かれる。彼女は、その後の女性運動の大きな基礎を作ったことは間違いない。

 肉体に肉体を対置することは、同じことの繰り返しに過ぎない。同じ次元のことを対置しても、水掛け論に終わる。それでは価値は崩壊したままで、その争いには決着をつけられない。肉体と肉体という同じ位相ではなく、肉体と頭脳の対置が次の展開を生んだのだが、当時の彼女にそれを求めるのは酷である。

 アンディ・ウォーホールが工業社会を展開してみせているとすれば、彼女はその先を見せようともがいていた。両者はいずれも、現状に対しての革命児であったが、彼女のほうがより先進的でより革命的だった。時代に支えられない革命児は、先鋭化して崩壊せざるを得ない。彼女も革命する者としての愛憎半ばする近親憎悪から、ウォーホールを狙撃するに至る。工業社会の芸術家だったウォーホールを狙撃することによって、ヴァレリー・ソラナスは工業社会という近代を越えたのである。

 時代は、彼女を許容するに至っておらず、彼女は極貧のうちに死んでいく。映画のなかでみせた、路上で男に小銭をたかる彼女、新たなものはいつも下品である。売春を肯定し煙草をくわえながら、立ったまま男性のセックスの相手をする彼女は実に潔かった。売春は悪だといった男性社会からの道徳的な非難は、彼女にはまったく無意味である。孤高の信念に生きる彼女は、もはや崇高な宗教家であった。

 女性の自立を語る時には、古くて新しい問題も映画になっている。それは妊娠中絶である。妊娠は女性の行動を制限する。とりわけ望まぬ妊娠は、女性に大きな衝撃を与える。それは今も昔も変わらない。ナンシー・サヴォカ監督は「スリーウイメン」1996で、1952年、1974年、それに1996年と、時代の異なった三人の女性を取り上げて、妊娠中絶を考えている。アメリカでは現在、妊娠中絶手術が認められてはいるが、胎児の命をどう考えるかという、生命倫理の問題と絡んで論争が絶えない。この映画でも、女性の権利としての中絶承諾派と、胎児の生命擁護派の確執が描かれている。女性の自立を考えるうえで、妊娠は避けては通れぬ問題である。

 1995年をすぎると、女性が自立したあとを描く映画が登場してくる。ジェームズ・アイボリー監督の「サバイビング・ピカソ」1996は、ピカソを女性関係から見た映画で、とりわけフランソワーズ(ナターシャ・マイケルホーン)という女性に焦点をあてて作られている。初期工業社会までは、誰も表現を指向する女性の協力者にならず、フランソワーズの選択は不可能だった。彼女の叔母が、どんな状態になろうともフランソワーズを愛し続けると言った。フランソワーズは叔母からの支援によって、生活を成り立たせ、世俗の論理から離脱できた。時代は女性の表現者を許容するようになった。

 女性が自立しはじめたことを確認した眼で見ると、ジョン・アブネット監督の「アンカー・ウーマン」1996は、すでに時代錯誤に見える。ミッシェル・ファイファー扮するテレビのキャスターはお天気お姉さんから出発し、刑務所の暴動を取材したことからアンカー・ウーマンへと出世していく。しかし、彼女の出世の影には、ロバート・レッドフォード扮する男性上司がおり、彼に可愛がられたがゆえの出世である。男性の出世も上司の引きが必要だが、この映画では職業と男女関係が重なっており、これでは職場の同僚から反発をかうだけである。

 スーザン・ストライトフェルド監督は「イヴの秘かな憂鬱」1997で、女性が時代と格闘する様子を、誰にでも判るようにきわめて論理的に表現している。女性監督によって撮られた「female perversions」という原題のこの映画は、女性の試行錯誤の軌跡が理詰めで画面に展開される。初期フェミニズムの女性たちは、女性特有の生理とか出産とかといった女性固有の感覚でもって、女性の連帯を作ろうとした。しかし、この映画はその次元にはない。

 性別による連帯は、輝ける家族像の裏返しにすぎない。女性固有の感覚による連帯では、動物的な次元にとどまるだけで、社会性を獲得できない。感覚は個人的な体験である。すべての人間が、同じ感覚を持つとは限らない。主張が感覚に支えられている限り、他人へは伝わらない。感覚や感性から論理と言った次元まで認識を上げてこそ、異なった体験をもつ他の人とのあいだにも、相互の理解が成り立つ。

 女性は、己のなかにある生物としての部分と、社会的な部分を両立させることにとまどっている。女性が仕事をすることは、当然だと思うようにはなった。しかし、女性的にも魅力的でありたいと思っているから、見つめられる者としての美つまり既存の女性美に拘束される。それはどうしても男性に迎合的な女性像へと、自分をはめ込むことになる。職業人としての魅力が、そのまま性的な魅力でもある男性像とは、女性の場合は大いに異なる。女性にあっては、職業人としての魅力がそのまま性的な魅力にならない。

 女性が個人としてと職業人としての二つの魅力を、統一させることが出来ない限り、イヴの秘かな憂鬱は続く。美人だったり、スタイルが良かったりといった価値を、女性が職業人としての魅力にどう消化していくのだろう。美人であることと職業人としての能力は関係ないが、容姿は美しくありたいとは誰でも思ってしまう。結論をいえば、職業が人間を鍛えるのは間違いないだろう。この映画は、自立後の女性にとって困難な作業の入り口を描いている。

 ティム・ディチロ監督の「リアル・ブロンド」1997は、自立に戸惑う女性の困惑感を描く。男女の役割分担がはっきりしていた時代なら、男性が職業労働をし、女性は家事に勤しんだ。そうした役割分担の先例は当たり前にあって、無意識のうちに誰でもそれを受け入れていた。今やそうした役割分担は崩れ、男性が売れないつまり経済的な力がないことだってある。互いに愛情はあるから共同生活が続くとすれば、その時は女性が経済的に生活を支えなければならない。しかし、女性が経済的に生活を支える先例は、まだそう多くはない。

 女性が男性を養わなければならなくなったときには、女性は相手の男性には相談できない。職業人の男性と専業主婦の女性では関心が違うように、立場が違えば会話は成り立ちにくい。被扶養者を相手に相談したところで、立場の違う扶養者の困惑は理解してもらえないのだ。それは男女を問わない。困惑した女性は、他の誰にも頼れなくなり、とても心許ない。その時はどうしても、同棲している男性に当たりがちになる。当たられた男性も、男性役割はまだ刷り込まれているから、養われることに潔くなれない。男性は経済的に自立しなければならないと思っている。それを指摘されるから、逃げ場がなくなりますます逆上しやすくなる。

 工業社会での男性の役割、それは経済的な働きと勃起だった。それが女性の台頭によって、必ずしも不可欠ではなくなりつつある。しかし、社会や男性たちは経済的な働きと勃起が、自己のアイデンティティを支えると考えているから、それが失われたときは自己の崩壊につながりかねない。もちろん女性だって、社会的な規制から自由にはなれない。男性に稼ぎがあることは当たり前だし、女性である自分に対して男性が勃起することは当たり前だと思っている。それは、この映画の主人公メアリー(キャサリン・キーナー)の性的に屈折した心理と同じである。

 美人が美人としてもてはやされるのは、男性が養う対象として囲い込めるモノとしてみる視点があるからだ。女性を経済力を持った生活者としてみれば、美人であることはあまり得点が高くはない。美人のほうが、稼ぎが良いなんてことはない。モデルなど見られる対象としての職業をのぞき、通常の社会では美人はちやほやされるだけで、美人であるだけで高給取りとはなり得ない。男女が等価な社会で要求されるのは、男女ともに肉体的な美醜よりも、まず労働力があるかどうかである。

 映画俳優だって最近では、美人よりも頭脳の優秀さが求められている。しかも、映画が現実の生活を描けば描くほど、普通の男女の悩みが画面に投影されるから、主人公になるのは普通の男性や女性ということになる。正統派の美男や美女が主人公では、かえって物語の信憑性がなくなってしまう。モデルを物語の主人公にするなど特殊な例を除いて、映画の主人公はますます市井の人に近くなり、等身大の俳優が登場することになる。

 男女差別が少なかった農耕社会では、肉体労働が完全に優位していたから、まず肉体的に健康であるかどうかが問われた。美人よりも、頑健な肉体をもった女性が好まれた。美人であることはせいぜいが、殿様という支配者の側室になることぐらいしか売りはなかった。いまや男女が等価になりつつあり、しかも頭脳労働が優位になりつつある。そうした社会では、美人よりも頭脳の優秀さが大切にされる。にもかかわらず、いまだに工業社会の呪縛から自由になれない女性たちは、どうしても美人とかスタイルが良いと言った尺度で自分を測りがちである。肉体労働から頭脳労働への転換期の今、男女の関係もちょうど過渡期にある。

 アラン・ルドルフ監督は「アフター・グロー」1997で、すでに盛りを過ぎた人間の魅力を描く。人間に対する懐の深い優しい目が行き届き、歳をとるのは決して悪いことではない、そう言っているように感じさえする。肉体労働が支配的な社会では、肉体の衰えは決定的な弱体化だが、頭脳労働が優位する社会では、肉体的な加齢は無意味であると同時に、決してマイナスとは限らない。高齢というだけで偉いことは決してないが、肉体の衰えと、知力の衰えは比例関係にはないから、高齢化は劣等化を意味しない。肉体的には衰え始めた中・高齢者の台頭は、女性や障害者の台頭と同じことなのだ。

 ヒロインはかつては有名な俳優だったが、いまではお声がかからず、昔の栄光にすがって生きていた。彼女は何年かまえに妊娠し、娘を産んだ。仲間の俳優との浮気でできたのだったが、彼女は自分たち夫婦の子供として育てていた。夫との精神的な繋がりを信じていた彼女は、頃合いを見計らって、夫にそのいきさつを打ち明けると、案に相違して彼は逆上する。彼が大声でわめいたところ、それを娘に聞かれてしまい、切れた娘はそのまま家出してしまう。娘がモントリオールに引っ越したと聞いた彼等は、娘を追ってモントリオールに移住する。娘の家出が二人のトラウマとなったが、それでも二人は傷を舐め会いながら、いまは上手く一緒に生活している。

 男性や女性の自立によって、家族がバラバラになった状況を描いた映画も登場する。バート・フレウンドリッチ監督は「家族という名の他人」1997で、親と子供たち数組の男女がカップルになりながら、家族のなかでぎくしゃくした関係しかつくれない人々を描いている。感謝祭に集まった家族たちは、それぞれに恋人がおり、家族としてはまとまろうとはしない。核家族だった時代には、男女が対でなければ生きていけなかったから、家族は否応なく共同生活をした。経済的な必要性が、人間に共同生活を強制した。しかし今や、男女が共同生活をしなければならない経済的な理由はない。精神的な愛情を除いて、何も男女に共同生活をうながすものはない。家族は他人である。

 フィル・ジョアノー監督の「ウィズアウト・ユー」1999は「entropy」という原題で、男女の愛情をめぐる話だが、主題は恋愛ではなく表現と生活である。今や男女ともに自分の仕事を持つのが自然で、どんなに恋人を愛していても、どちらかが家庭を守る専門職となれない。職業と家事を分離し、男女で分担することはできない。男女ともに職業人であり、かつ家事をする人である。そして、仕事とは切り離された時間を、二人の私生活や家庭生活のために使うのである。私生活がみだりに職場に侵入してくれば、職場にいる他の人たちの生活がおかされてしまう。いままで女性は職業人ではなかった。家事といった生活の論理が、女性の論理でもあった。

 神様が生きていた農業が主な社会なら、表現つまり創造などと言う仕事はなかった。創造は神様だけの仕事だった。その時代の人間にあったのは、神様の意志を実現する職人仕事だった。だから、仕事と私生活の対立はあり得なかった。田畑に囲まれた農家の生活を見れば、それは簡単に想像がつく。この映画は情報社会化するいま、すべての人間が自立を迫られている状況を見据えている。創造的な仕事が、誰にでも期待されているという、きわめて今日的な映画である。

 情報社会では、男性も女性もない。家事もする職業人がいるだけである。男性だって新たな職業に就くときは、うまくやれるかどうか不安がいっぱいである。女性の社会進出をさまざまに描きながら、一つ一つ不安が検証され、女性の不安はだんだんと解消されていくのであろう。

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