単家族的映画論       第2部

現代アメリカ映画における家族像について     2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
7.子供への眼差し
 わが国では標準的な家族というと、親子4人の標準世帯を思い浮かべることが多いだろうとは前述した。しかし実はわが国でも、1995年現在の統計を見ると 1人世帯=23.1% 2人世帯=20.6% 3人世帯=18.1% 4人世帯=21.6% 5人世帯=9.4% 6人世帯=4.7%である。お父さんとお母さんそれに子供2人といういわゆる標準世帯は、すでに単身世帯に首位の座を奪われている。

 単身者や母子家庭・父子家庭といった欠損家庭つまり単家族が、単独で見れば最大多数になった。初婚の高齢化、高齢者の長寿化、離婚の漸増などと言った理由により、わが国でも親子4人の核家族は、ますます減っていくだろう。そして、専業主婦の減少・独居老人の増加や青少年犯罪の増加など家族にまつわる話も、アメリカの体験とよく似た道を辿っていくに違いない。情報社会化の進行は、社会の全員に影響を与え、子供だけを例外とはしない。

 クリス・コロンバス監督の「ホーム・アローン」1990や、ジョディ・フォスター監督の「リトルマン・テイト」1991、ジョセフ・ルーベン監督の「危険な遊び」1993のように、子供を主人公にした映画が、今までとは違う様相を見せ始めた。家族構造の変化は、子供を主人公にした映画にも影響を与えている。アメリカでは子供といえども、一人前とみなされてきたようだ。「危険な遊び」に登場する子供は、天真爛漫であどけない子供とはまったく違って、悪意をもった少年と設定されており、狡猾な一人前の大人と変わりない。ジョエル・シュマッチャー監督の「依頼人」1994は、弁護士に事件を依頼するのが子供である。

 ロブ・ライナー監督の「ノース 小さな旅人」1994では、自分に無関心な両親に対して、息子のノース少年ががフリーエージェントを宣言する。マスコミに騒がれて、ノース少年は一躍有名人になる。しかも、フリーエージェントが裁判で認められ、完璧な親を捜して世界へと旅立っていく、という親には皮肉な結末である。

 女性が自立する現代だが、トッド・ソロンズ監督の「ウエルカム・ドールハウス」1995は、子供時代を冷静に描いている。童話の世界では、継母や兄弟たちにいじめられる子供が優しくて、いじめる者を鬼のように描く。しかし、現実はそんなことはない。虐めれれば誰だって気持ちが曲がってくる。自分が虐められれば、誰かを虐めたくなる。虐められる辛さを知って、他人に優しくなど出来はしない。虐めが虐めを呼ぶのは当然である。そうした現実をこの監督は、冷静に見ている。

 この映画の主人公ドーン(ヘザー・マタラーゾ)は、ブスで成績が悪く、クラスの誰からも馬鹿にされ、心が優しいかというと優しくない。虐められる子が精神的に優しいかというと、悲劇的なことに虐められた彼女自身がまた意地悪である。愛情に欠けた教育を受けてくると、大きな傷を心におってしまうのは当然である。虐待された子供は、自分が親になって子供を虐待してもしかたない。愛情が大切だとは誰でも知っているが、愛情の表現の仕方は誰でも知っているわけではない。

 父親が厳父だった時代、子供たちは母親を防波堤にした。母親が子供と密着した愛情を確保した。しかし、父親のカゲが薄くなった現代では、母親が厳母ともなりうる。すると、この映画のような母親の逸脱を止める者がいない。社会的な訓練を欠いた母親の恣意的な感情に子供は振り回される。また、家族が多かった大家族の時代には、祖父や祖母が子供たちの隠れ場にもなった。それが子供の心のバランスを回復させた。情報社会とは、子供にとって厳しい時代である。

 男性も女性も職場へと出かけ、昼間は家庭に誰もいない。核家族が崩壊し始めると、子供はいったい誰をたよって成長すればいいのだろうか。90年の前半までは、家族のあり方を考えるものが多かったが、女性の自立がふつうのものとなった90年代半ばからは、家族全体から子供や子育てへ、より個人的な話題へと主題が少しずつ移っている。成人した人間は自分でやっていくだろう。しかし、次の社会を担う子供を放置するわけにはいかない。だから映画も、子供に注目せざるを得ない。

 誰もが自立する個化する情報社会で、アキレス腱として残るのは、次世代の育成である。個人化する情報社会は工業社会以上に、個人の能力や努力次第で、豊かな生活が入手できるはずである。しかし、個人の能力や努力ではどうにもならない事情によって、人生が決まっていることが明白になったら、誰も努力しなくなる。そんなことになったら、新たなものを生む活力がなくなり、社会が崩壊する。工業社会では学校を作って、次世代の教育にあたったが、情報社会はどうすればいいのか。次世代の育成は、情報社会が解決しなければならない枷である。

 アメリカ陸軍の落ちこぼれ新兵たち6人に、ハムレットを教える教官の物語を、ペニー・マーシャル監督が「勇気あるもの」1994で撮っている。教える者自身が興味を感じ、子供たちに真剣に対応すれば、新しい世界を知る喜びが伝わる、とこの映画はいう。ジョン・n・スミス監督は「デンジャラス・マインド」1995で教育問題を描き、スコット・カルバート監督は「バスケットボール・ダイアリー」1995で、麻薬常用者へと堕ちていく子供たちを描く。

 アラン・モイル監督の「エンパイヤ・レコード」1995では、若い高校生たちがそれぞれに悩み、生き方を模索していることが淡々と描かれている。外見上は普通に見える子でも、内心は不安でいっぱいである。ラリー・クラーク監督の「キッズ」1995では、hivをからめて子供たちのセックスを扱う。思春期の子供たちが、性に興味をもつ。これは世界共通である。思春期の子供たちに、性の手ほどきをする場所があった農耕社会とは異なり、情報社会は個人化しているので、子供たちはただ放置されている。子供たちは、短絡的に大人の世界をまねしようとする。大人でも生きていくのが大変な時代、子供たちに自力で良識をつくれと求めるのは無理である。

 アメリカでは90年代の後半になると、ジョエル・シュマッチャー監督の「評決の時」1996など少数の例外を除いて、標準的な核家族を舞台にした映画は、見ることが出来なくなってしまった。ほぼすべての映画が、母子家庭や父子家庭と言った欠損家庭を前提にしており、父と母と二人の子供が作る標準家庭は、まったくの少数派に転落した。エイミー・ヘッカーリング監督の「クルーレス」1995や、クリント・イーストウッドが監督した「目撃」1996では、父親と娘の家庭が舞台である。ワームホールと言った先端的な宇宙論を下敷きにしたロバート・ゼメキス監督の「コンタクト」1997でさえ、父親と娘だけの家族である。そして、ジョン・タートルトープ監督の「フェノミナン」1996が、母親と子供だけの家族である。

 若いアメリカの黒人監督セオドア・ウィッチャーが、自分の廻りにいるふつうの黒人の若者たちを描いたのが「ラブ・ジョーンズ」1996である。今や男女共に自我の確立が難しくなり、異性がなかなか恋人にならない。花嫁になるのを夢みていたかつての女性なら、男性と自我の張り合いはしないし、職業の選択にも消極的だった。今の現実は違う。個人としては愛し合う仲でも、男性と女性は社会的にはライバルでもある。若い二人の心理描写を中心にして、映画は淡々と進む。ボブ・ラフェルソン監督の「ブラッド&ワイン」1996では、ヒロインは自分と同年齢の男性ではなく親子ほど歳の離れた男性を選び、年齢や家族秩序が崩れている現代的な苦いエンディングである。

 子供への関心は深まる。次の世代である子供は、放置したままでは育たない。次世代への関心、それはロバート・デ・ニーロ監督「ブロンクス物語」1993、バリー・レヴィンソン監督「スリーパーズ」1996やなどで、たびたび描かれる。

 「スリーパーズ」では、古き良き家族を守ろうとするロバート・デ・ニーロの問題意識がかいまみれる。四人の子供たちが生活していたのは、ニューヨークの無法地帯だったが、そこの住人たちにとっては、掟を守る限り安全な場所だった。しかし、彼等は犯罪を犯し、少年院に収容される。少年院が更正の場所ではなく、ただ暴力の支配する世界だと知ったときは遅かった。執拗に繰り返される暴力、そして夜毎に忍んでくる看守の強姦、または看守たちによる輪姦。彼等はそこでの体験が精神の奥深く刻まれ、正常な精神を維持できなくなる。成人後、マイクは地方検事に、シェイクスは新聞記者に、トミーとジョンはギャングになっていった。

 成人になった後年、トミーとジョンは看守だったノークス(ケヴィン・ベーコン)を射殺する。衆人の監視下での殺人だからたちまち逮捕され起訴される。その事件の担当をマイクは志願する。地方検事のマイクは、彼等二人を無罪にし、しかも少年院での復讐を果たそうとする。無罪にするためには、彼等のアリバイを証明する誰かの証言が必要である。そこで、ボビー神父(ロバート・デ・ニーロ)に証言=偽証を依頼する。

 神に使える彼は悩みに悩んだあげく偽証をする。嘘をつくことはできない神父が、公判で偽証する。神父の証言は、目撃者の証言より強い。農業を主な産業とする社会の宗教であるカソリックの教会システムが壊れはじめ、社会的な機能を喪失していることが、映画制作者たちにこうした展開をとらせる原因である。 

 少年院や刑務所・軍隊といった閉鎖された場所での犯罪は、外部から伺い知ることができない。また被害者が告発しても、被害者自身がすでに社会的な悪者であり、看守たちは犯罪者より良識的であるという常識がまかり通っているから、被害者の主張に耳を傾ける者は少ない。その上、性的な虐待が伴うときは、被害者が人格の崩壊を防ぐために、被害にあったことを口外しない。真相はますます判りにくい。犯罪が密室化していき、被害者は犯罪の立証すら難しくなる。初期工業社会までこうした集団では、それなりの掟が集団の秩序を維持してきた。しかし、今や共同体の掟は機能しない。

 父親と子供の関係を考えるものが増えていると書いたが、アーサー・ヒラー監督が父親と子供たちのもめ事を「ドタキャンパパ」1996として撮っている。九六年にはその名も「ファーザーズ・デイ」1996という映画が、アイヴァン・ライトマンの監督によって登場している。家出した子供を、あたかも自分の子供のように捜す映画である。親子の血縁は愛情に直結しないと判っても、自分の子供という血縁に収束していく意識からは、簡単には抜けられない。

 ジョン・シュルツ監督の「バンド・ワゴン」1996は、田舎に住む音楽好きな四人の若者がバンドを組み、おんぼろワゴンで全米を回る話であるが、主題は教育である。マネージャーをつとめる大人が、子供たちの才能と音楽好きを信じて、手助けしたい手を出さない。そばにて、ただじっと離れずにいて見守る。大人が口を出せば、それは今の価値基準から言っているにすぎない。

 大人の忠告は、子供の将来には役に立つかどうか判らない。口出しすることによって、立つ力を奪う。突き放しているようだが、これが一番難しく、愛情にあふれた態度である。しかも最近の研究によれば、子供は親世代からの影響より、仲間同士つまり子供社会の掟にしたがって成長するという。両親が聾者でも、その子供は完全な言葉を体得する例をあげて、「子育ての大誤解」のなかで、ジュディス・リッチ・ハリスは次のようにいう。

 「文化は古い世代から新しい世代へと、家庭ではなく、仲間集団を通じて受け継がれる。子どもたちが身につける言語や文化は仲間たちのものであり、(もし違うものであれば)親や教師のものではない」早川書房「子育ての大誤解」p318

 モーガン・j・フリーマン監督は「ハリケーン・クラブ」1997で、平凡な日常に社会の歪みを鋭く見抜き、子供の自立というきわめて現代的な視点で映画を撮っている。古き良き家族が支配的だった時代には、男女の役割や家族構成員の役割が決まっており、それに合わせて人間は生活していた。社会的にも男女で性別役割が固定していたし、立場で生き方が決まっていた。そこには小さな子供の社会があったし、男性も女性も落ち着いていられた。

 役割や立場から逸脱することは、将来の生活ができなくなることを意味していたから、親たちにとって子供を鋳型にはめることこそ良識ある教育だった。そのために躾が厳しく言われた。暴力的な躾も肯定されたし、子供たちも渋々ながらそれに従った。今やそうした役割分業や立場でものを考える発想は役に立たなくなっている。それを子供たちは敏感に察知して、親が体現する既成の価値から逃れたくて仕方ない。それは具体的には家庭からの脱出だし、父親からの逃避である。

 肉体労働の時代には、屈強な肉体をもった者がエリートである。肉体的な劣者は差別され、青白きうらなりはオチコボレだった。肉体の強さに応じて、社会の序列ができていた。反対に、全員が学校での高等教育を受ける頭脳労働が優位の社会では、学業成績の悪い劣等生は落ちこぼれる。しかし、社会での成功は、頭脳の優秀さだけで決まるものではない。頭脳労働の社会での規準がまだ見えない。

 いつの時代でも、社会のしわ寄せは弱い部分へとくる。子供にとって大人は不可欠であっても、大人にとって子供は不可欠の存在ではない。子供を用役の対象と見ない情報社会では、自立した大人たちにとって、子供は絶対的必要不可欠のものではない。いまや子供は親の癒しであり、いわばペットなのだ。子供を自分の心の癒しだと思えない親にとって、子供ほど手の掛かる不愉快な存在はない。子供は世話を焼かせるばかりで、何の役にも立たない。むしろ子供には、多大な経済的負担を強いられる。出来の良い気に入った子供には関心を示しても、親の思い通りにならない子供からは、親の関心が遠のいていく。捨てられた子供は、自己存在の手応えを求めて彷徨わざるを得ない。

 近代は若者が担った。だから近代の象徴である都市へと、子供たちは旅立った。しかし、工業社会の秩序が盤石になってしまった今や、ニューヨークという都会は子供に無力感だけを与え、手応えのある将来を夢見させてくれない。人間が大切にされているであろう見知らぬ田舎へと、子供たちは旅立つ。都会とは反対の方向だ。田舎も近代化の波は押し寄せ、田舎にも彼等の求めているものはない。情報社会の生活は厳しい。子供たちは、それについて来ることができるのだろうか。モーガン・j・フリーマンという若い監督は、優しく子供たちを見つめる。

 肉体をつかった労働が主流だった時代、大人たちは子供から見えるところで働いていた。そして大人たちは、世の中が決めた自分の役割を果たした。誰の生活も似たようなものだったので、子供との付き合いも簡単だった。大人と子供がいっしょになって、村を上げての祭りだってできた。しかし今や、果たそうにも各人に決められた役割はない。生活は個人的になり、各人は各人の予定にしたがって生活している。子供と大人の生活のリズムは違ってしまった。

 トム・シャドヤック監督の「ライヤー・ライヤー」1997もまた、「ドタキャン・パパ」と同様、父親と子供との関係を扱っている。ジム・キャリーが扮するフレッチャーは、有能な弁護士である。そのため非常に忙しく、しかも突発的な出来事が多い。子供との約束はいつもキャンセル。決して守られたことがない。家庭生活を大切にしない夫に愛想を尽かして、妻は二年前に離婚。それでも子供のマックス(ジャスティン・クーパー)を仲立ちにして、二人には繋がりがあった。

 マックスの五才の誕生日、約束したにも関わらずフレッチャーは来ない。マックスは、父親が今日一日嘘をつきませんようにと、ロウソクを吹き消すときに願をかける。その願がかない、父親は嘘がつけなくなる。この映画は嘘をつくことが悪いと言っているのではない。ある時、嘘は人間関係の潤滑油にもなるし、法廷での争いに嘘はつきものかもしれない。この映画は、それまで否定しているのではない。そうではなくて、子供の世界と大人の世界が錯綜したとき、どちらが優先されるべきかというのが主題である。

 「ケーブル・ガイ」では、子供がテレビをベビーシッターとして育つことへの批判だったが、そのもう一つ手前にある現代社会の職業を優先させる生活への批判である。子供の世界、それは大人の世界とは違う。子供は言葉をそのまま信じる。それに大人が答えられないとき、子供はどう育つのだろう。それがこの映画でも主題である。保守派のロバート・デ・ニーロとは立場を異にするが、「ライヤー・ライヤー」のジム・キャリーもまごうことなき優れた現代人である。

 ハーモニー・コリン監督の「ガンモ」1997が描くのは、荒涼とした子供の風景。それだけだ。子供への暴力や家庭の崩壊のされ方は、筆舌に尽くしがたいと感じる。二人の子供が、自転車に乗りながら近所の猫を捕まえては、肉屋に売って小遣いを稼いでいる。田舎の町に住む二人の子供たちの、身の回りにあるありふれた事柄を題材にしながら、ややメルヘンチックにしかも世紀末的に撮った映画である。

 ピーター・チェルソム監督の「マイ・フレンド・メモリー」1998は、肉体から頭脳へと転換する現代社会の問題点を、じつに忠実に映像化している。肉体的力が頑健であれば、少しくらい知能が低くても生きていけた農業中心の社会から、頭脳の働きがより複雑に要求される情報社会へと変わってくれば、知恵遅れの子供たちはますます除け者にされる。しかし心の美しさは、必ずしも頭脳の優秀さだけにはあらず、肉体的障害や知能障害を越えて心の美しさはあるのだと訴える。 

 あまりお金もかかっておらず小さな映画だが、ジーナ・ローランズ、シャロン・ストーンという有名な女優が出演している。おそらく彼女たちは、大ヒットが見込めないこの映画に、喜んで出演しただろう。肉体と頭脳の相克は、女性たちの抱える問題とまったく同質なのである。頭脳明晰な現代女優たちの生きる姿勢そのもののような映画だった。邦題は「マイ フレンド メモリー」であるが、原題は「the mighty」であることも、映画製作者たちの真意がどこにあるか判る。

 マーク・スティーヴン・ジョンソン監督の「サイモン・バーチ」1998も、同じ主題を扱っている。「マイ・フレンド・メモリー」や後述する「ジャック」などと同様、心と体の分離が主題である。もちろん、心こそ大切なのだという。命を与えられた以上、誰にも何か役に立つことがあるのだという主張である。

 サイモンは実の親を含め、みんなから奇形・出来損ないとバカにされていた。それでも、神への信仰を失わず、明るく生きるサイモン(イアン・マイケル・スミス)。体が小さく何の役にも立たないようでありながら、神は誰にも何か役に立つことを与えたと、信じるサイモン。彼の姿勢に唯一の友人ジョーの母親であるレベッカは、我が子のようにサイモンに愛情を注ぐ。しかもレベッカは、未婚の母である。ここでも血縁の親より、心の通うのが親であると言う。今や家族は選べる時代なのだ。

 クリス・エア監督の「スモーク・シグナルズ」1998は、アイダホのインディアン保護地に住むインディアンを舞台にしているが、主題はインディアンへの反差別ではない。父にたいする子供の精神的な葛藤を描いている。インディアン保護地では、補償金がでるので、男性はお金を稼がなくてもいい。お金を稼がず家事労働もしない男性と、無収入ながら家事労働をする女性。ここで男性のアイデンティティが失われている。父である男性は、お金を稼ぐことによって女子供を養ってこそ、その存在証明があった。多くは女性の職業人かで男女の等質化が進んでいるが、ここでは男性の無給化というかたちで、男女の等質化が計られる。

 稼がない男性のアイデンティティを、父親自身はどう確立するのか。この監督は、それでも父親に温かい目を向けている。父親は家族から逃げてしまいながら、表現できない子供への愛情をもち続ける。新しい場所で知り合ったスージーには、バスケットの才能があると、自分の子供をとても自慢そうに話す父親。父親が回想しながら、一人でバスケットをするシーンは、目が洗われるように美しい。

 そうした父親を子供はどう見ているのか。心に傷をもった男性を、女性はどう受け入れるのか。それを一人の女性を通して表現する。誰でも間違いはする。あるがままを受け入れようとするクリス・エア監督。父が死んだという訃報が届く。やがて、息子も父親の心理が判りはじめ、遺灰を地元のスポーケン川の滝にふりまく。この映画は、現代の男性像を暖かくしかも鋭くえぐっている。

 さまざまな主題が取り上げられて、映画は作られる。人間は生活している以上、多くの集団をつくる。一番ちいさい人間の集団を家族といった。お父さんとお母さんのそろったのが、ふつうの家族だった。しかし、今の映画はそうとは限らない。むしろ父親だけ、もしくは母親だけといった単親のほうが多い。マーティン・ブレスト監督の「ジョー・ブラックをよろしく」1998とマイケル・ベイ監督の「アルマゲドン」1998では、父親と娘の家庭である。しかも、サイモン・ウエスト監督の「将軍の娘 エリザベス・キャンベル」1999では、父親と娘だけの二人家族でありながら、二人は完全に対立し娘は父親に恨みをもっている。

 マーク・ベリントン監督の「隣人は静かに笑う」1998は父親と息子だけの家族だし、スパイク・リー監督の「ラスト・ゲーム」1998は母を殺した父と息子の物語である。ジョージ・ルーカス監督の「スター・ウォーズ エピソードT」1999やm・ナイト・シャマラン監督の「シックスス・センス」1999では母親と息子だけの家庭が舞台である。かつてなら欠損家庭と呼ばれた単親家庭が、映画の舞台になる例がほんとうにふえた。しかも、単親家庭に登場する子供たちが、単親であることによって性格が歪んでいない。多くの映画では、ごく普通の子供として描かれている。愛情さえ確保されていれば、単親でも子供は健全に育つ。子供の生活環境は本当に変わったのである。

 カーティス・ハンソン監督の「ワンダー・ボーイズ」2000とは、驚くべき少年たちという意味だろうか。若い頃に大変な才能を発揮した神童と、成長を続ける男性作家という難しい主題である。若者と書けない作家というだけなら、才能溢れる若者との間の嫉妬といった定番の展開になる。この作品の主題はそこにはない。

 かつて小説を発表し一度は有名になったグラディ・トリップ(マイケル・ダグラス)は、今大学で教鞭を執りつつ創作を続けている。前作の発表直後から書き始めた作品が、何時までたっても書き上がらない。グラディは学長のサラ(フランシス・マクドーマンド)と不倫を続けており、彼の奥さんが彼のもとから逃げた日に、サラから妊娠を告げられる。しかも、サラの夫は文学部長で、グラディの上司というやっかいな間柄。そこに嘘つきの学生ジェームスが絡んでくる。

 フィクションを日本語に直せば、嘘である。嘘をつく能力こそ作家の命であり、物語を創るのは嘘を構成する能力の別言である。ジェームスはすでに小説を書いており、グラディはそれを読む。彼の作品は才能に溢れるものだった。一昔前までなら、新たな神童の才能に嫉妬する今は凡人となった、かつての神童が主題になっただろう。しかしもはやその主題は、意味を失っている。グラディは現役の作家であり、何歳になっても創作活動を続けている。彼には教授として先達ではあっても、彼の思考は教授という地位に拘泥していない。創作活動において、教授という立場や年齢はまったく意味がない。だから彼はジェームズと同じ目線で接している。

 サラとの不倫、サラの妊娠、ジェームズを匿ったことなどにより、グラディは大学での地位などのすべてを失う。しかし、50歳の彼はサラと再婚し、表現活動に専念できる幸福をかみしめるところで映画は終わる。いつまでも成熟しない人間、完成するのを避けようとする現代人。アダルト・チャイルドの極みであるが、この映画はそれを肯定する。悩み、他人を傷つけ、必死に自分の人生を生きる子供大人たち。それが現代なのだと、この映画は言う。実に判りにくい主題だが、まごうことなき現代映画である。立場や年齢という枷が外れ、生身の人間がそのまま放り出される現代社会。まさに観念に生きる情報社会の映画である。

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