単家族的映画論       第2部

現代アメリカ映画における家族像について     2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
9.純粋な愛情の展開
 爆発期を迎えたアメリカの映画界は、次々と新たな地平を切り開き、九七年になってもその勢いは止まらない。サンダンス映画祭で絶賛されたガス・ヴァン・サント監督の「グッド・ウイル・ハンティング」1997は、情報社会への入り口で困惑し、自分の有り余る才能を持てあましている子供たちを、暖かく見つめる映画である。というより、この映画の原作と脚本は、ウイルを演じたマット・デイモンとチャッキーを演じたベン・アフレックが書き、ガス・ヴァン・サント監督はそれを忠実に映画化したという。

 この映画は、情報社会に一歩足を踏み入れた子供たちから、ともすれば懐古的になる工業社会の大人たちへの願望的なメッセージである。情報社会の子供には、工業社会の常識が通用しない。もちろん彼等は工業社会の大人より、遥かに優秀である。この映画は、大人と子供の関係をウイルに託して、象徴的に描く。情報社会の天才少年ウイルと工業社会の秀才ランボー教授の対比は極端だが、百年後の人間と今の工業社会の人間との間には、このくらいの乖離はあるだろう。ウイルとランボー教授は、教授といった立場や年令に関係なく、まったくの対等である。

 対等な横並びの人間関係こそ、情報社会のものである。横並びだからこそ、愛情だけが両者をつなぐ。農業が主な産業だった社会では、すべての人間が上下関係の仲に生きていたし、年齢秩序が生きていた工業社会まで、大人と子供そして親子は上下関係として捉えられていた。しかし情報社会では、大人と子供は対等である。

 江戸時代に天才と言われた人たちの才能は、現在の高校生から見れば、驚くには足らずまったく普通である。当時の数学にしても測量にしても、現在なら常識である。その時代では傑出していても、百年後から見れば当たり前である。これと同じ構造的な変化が、情報社会への入り口にある今、起ころうとしている。それに気がつき始めた人がでてきた。だからこうした映画が作られる。

 科学的な知識がどんなに進歩しようと、人間の心はそんなに変わるものではない。むしろ、知識が進めば進むほど、人間のあり方が自然から離れるがゆえに、心は安定を失う。人間の存在が自然から離れるに従って、人間は精神だけで立たなければならなくなる。情報社会では肉体労働は機械が代替する。肉体労働に集中することによって、無意識の境地没入しようにも肉体労働がない。労働にはもはや無我の手応えはない。

 時代の転換点では、新しい社会と古い社会の両方に、身をおかざるを得ない。多くの大人たちは、今までの社会の常識から抜けきれず、新しい子供たちを異端視しがちである。新しい子供たちは規範がないという新しさゆえに、自分を律することができず、自閉的になったり、反抗的になったりする。心の中では、愛情を求めていながら、愛情がどういうものか知らない。形の判らない愛情を求めてもがく。なぜなら、身分や属性の支えがなくなった情報社会では、愛情がないと人間は生きていけないから。

 人間関係を取り結ぶことが困難に見える今日の状況に、この映画は正面から取り組んでいる。ロビン・ウイリアムスが出演しているが、役者たちも取り立てて上手いわけではない。台詞こそ下品で過激だが、ベッドシーンだって着衣のままである。大規模なセットもないし、何も壊れず、お金がかかっているわけではない。ただ、原作と脚本の同時代性、先鋭性、本質指向性、それだけである。

 アメリカという風土が天才を発見し、許容するにしてもすごい映画である。誰でもが、自分の信念を持ち、信念を大切にするがゆえに、新たなものが登場したときに、それが評価できる。ランボー教授は自分の才能の小ささを知らされて、非常に落胆するが、それでも彼はウイルの才能を伸ばすことが自分の使命だと考える。自分の教え子(ウイルはmitの学生ではなく、掃除のバイトである)でもないウイルに、就職の斡旋までし、それをコケにされてもめげない。ただ才能に信奉する。

 ハル・ハートリー監督の「ヘンリー・フール」1997は、詩人の才能の開花が主題ではなく、その発見が主題である。時代をかくする才能は、常に常識を打ち破るものとして、非常識の世界からやってくる。新たな才能は、常に卑わいで下品なものだ。新たな才能は、既成の権威を打倒する形で登場するのが常だから、新たな才能をほんとうに理解できたら、人は権威者としてとどまっているわけにはいかない。既成の権威者たちには、彼等の存在構造からして、新たな才能の開花は理解できないのだ。新たな才能の登場は、この映画が描くとおりだろう。新たな才能の登場が期待される時代に、この映画は力強いメッセージを投げかけている。

 我が国でも、新たな才能は生まれているはずである。しかし、大人たちは権威に従順で常識に従う。独創性やユニークさが評価されないから、新しいものが現れてもそれと気づかない。また新しいものは最初は不格好であるため、それを評価できず、むしろ貶めたりする。どんな世界だって、子供が悪いわけではない。大人が作る世界が、新たな子供を生かしもし、殺しもする。アメリカ映画の問題関心は、男女関係から子供の問題、言い換えると世代を越えた文化の伝達に広がりつつある。

 アンソニー・ミンケラ監督の「イングリッシュ・ペイシェント」が中年者の純愛を描いたとすれば、ジェームス・l・ブルックス監督の「恋愛小説家」1997はその高齢者版である。年齢を加えることは自分の世界を作ることだから、高齢になればなるほど、誰でも自分の世界を強固に作り上げる。自分の趣味、生き方、当人を取り巻く人間関係など、長く生きてくれば積もったものも厚くなる。
 
 相互関係の典型である恋愛は、相手がいる。恋愛をするには相手の対応によって、自分を変える必要がある。頑固になってしまった高齢者たちには、恋愛することが難しい。高齢者たちは新しい異性に出会っても、自分のスタイルを変えることができず、なかなか恋愛に飛び込めない。

 この映画の主人公メルビン(ジャック・ニコルソン)は、生きてきた60年のあいだに、特異な自分のキャラクターを作ってしまった。それは自分の心を、世間の荒波から守るための毒舌だったり、身を守る潔癖性となって現れていた。ヒロインのキャロル(ヘレン・ハント)のほうも病弱な子供を抱え、自分自身の楽しみや人間としての行動よりも、子供の生活が優先して、ゆとりのない心理になっていた。彼女の存在証明は子供を守ることになって、彼女自身が自分の心を失っていた。そのため、幸せそうな人を見ると、嫉妬心に燃え、平静な心理が保てなかった。 

 身分制度が完全に消え去った社会では、有名小説家という肩書きは無意味である。その人間の精神的な活動だけが、人間のアイデンティテイを保証する。斯くあらねばならないという、共同体倫理の強制がなくなった社会では、個人の精神生活から生まれるものだけが、具体的な人間関係を支える。対世間ではなく、対自分の緊張関係だけが、自分の言動を決める。しかも、情報社会では経験が知の質を保証しないから、年齢を重ねることが人格を成熟させることはもはやない。ジェームス・l・ブルックス監督は、情報社会の人間関係を暖かくしかも正確に描いた。

 ケヴィン・スミス監督の「チェイシング・エイミー」1997は、インディペンデント系の小さな映画だが絶賛である。アメリカ社会は、いま猛烈な勢いで新しい理念を作り出している。時代を作る新たな理念が、次々と生み出される力には、本当に感心するばかりである。現場にいる当人たちは、新しい理念であるかどうかなど意識せず、それが快適だから作っているだけだろうが、本当に驚嘆に値する。

 ヒロインのアリッサ(ジョーイ・ローレン・アダムズ)は、コミック作家として収入があるから、誰に気兼ねすることなく、自分の好みに従って生きることが出来る。「私は性的な経験を積むことによって、自分の好みが判った」「今まで、多くの男性と関係を持ったが、すべて自分から望んでやったことであり、強制されたものではない」「今の自分を作るための経験だから、特異な性体験を後悔もしないし、誰に謝るつもりもない」「今までの経験が、今の私を作ったのだ」「今の私を好きなら、私の経歴を自分の価値観で裁かないで欲しい」とアリッサは言う。それに対して、ヒーローのホールデン(ベン・アフレック)は「君は男に遊ばれただけだ」と、まったく古い対応でしかない。

 自分の存立基盤に自信がある女性たちは、誰と肉体関係を結ぼうと自由である。自分の良心にだけ忠実であれば、男性の意向を伺う必要はない。しかし男性たちは、旧来の性意識にとらわれており、多くの男性経歴のある女性を、素直に認めにくい。そこで女性たちは、先鋭化すればするほど同性指向になっていく。男性と女性が同じ速度で意識変革されていく保証はないし、旧来の文化は我々の体や社会に染みついている。簡単に新しい理念になじむことは出来ない。

 悩む主人公ホールデンに、ある高校生が「自分も同じ経験をした。自分は女性の性遍歴を許せず分かれてしまったが、セックスはどうでも良い。その女性は人間としての自分を求めていた。しかし、それが判ったときはすでに遅く、二年もたってからだった」と言う。この台詞が年下の高校生から発せられるのは、年齢秩序の崩壊を如実に表している。セックスが出来る年齢になれば、男女の関係が始まる。恋愛が年齢を問わないのは、当たり前である。恋愛やセックスと言った普通の人間行動に関して、うぶな高齢者に経験者である高校生が、忠告をしても何の不思議もない。

 この映画の主題は、セックスは愛情の保証にはならず、人間関係はまったく精神的な緊張感だけが、担保するというものである。「マクマレン兄弟」でも、アンが同じ主張をしていた。相手が異性である必然はない。もちろん同性もありだし、性も年齢も人種も関係ない。ただ好感を持つこと、つまり純粋な愛情だけである。形に見える事実は、いっさいの重要性を失い、ただ精神的な愛情だけが人間関係をつなぐ。それは当然である。それには反論の余地はない。

 ここまで純粋に愛情至上主義をいわれると、その愛情はどうやって担保するのかと問いたくなる。この問いは無意味だとわかっていても、人間は何に頼って生きていけばいいのか、まったく判らなくなる。しかしそれでも、純粋な愛情にたよる以外に、人間関係を支えるものはない。もはや男女間に養う養われるという関係は存在しない。だから、結婚という制度はもちろんセックスさえ、人間の精神活動を保証しない。形あるものは愛情を支えない。ただ純粋に愛情が存在するだけである。漂ってうつろいやすい愛情がすべてであり、愛情を感じるのは自分の心だけである。

 カール・フランクリン監督の「母の眠り」1998も、また純粋な愛情を描いている。ガンの末期症状による痛みに苦しむ母。それを見ていなければならない娘。母は鎮痛剤のモルヒネを致死量以上に欲しがる。それをまず娘に、そして夫に頼む。痛さに苦しんではいても、母を死なせるわけにはいかない。両者ともに拒否する。とうとう母は自分で致死量のモルヒネを飲み、オーバードーズで死んでいく。そのため、最期を見とった娘に殺人の容疑がかかる。原作では起訴されて、辛うじて無罪になるらしい。この映画は、尊厳死が主題でもある。

 母が死を宣告されてから死ぬまでの短い間、それまでは見えていなかった父親や母親の姿が、娘に見えてくる。対社会的には立派だが内心は弱い父親、弱い父親を心から愛していた母親。今までは母親と、なぜか疎遠な感じだったが、死を前において心が通い始める娘。この映画は今前にいる人を無条件に愛すること、それが人間関係で最も大切なのだと言う。

 青い鳥を捜し続ける人は、目の前にある幸せに気づかない。誰か素敵な人が現れたら愛するのではなく、今目の前に生きている人間を愛し大切にしよう。男女が社会的に平等になりはしたが、やはり男女は違う生き物である。社会的には男女が競争するが、個人の次元では、生身の人間を見て互いを大切にしよう、というメッセージが伝わってくる。専業主婦の復権と、キャリア指向の女性バッシングかと思っていたら、まったく違っていた。専業主婦を素材にしているが、決して家庭回帰の映画ではない。邦題は「母の眠り」だが、「one true thing」という原題のこの映画も、純粋な愛情を賛美して今日的な主題を扱っている。

 ウール・グロスバード監督は「ディープエンド・オブ・オーシャン」1999で、失踪してしまった息子が、九年ぶりに家に帰ってきた時の葛藤を描いている。お父さんとお母さんそれに二人の息子で平和に暮らしていたある日、三歳になった弟のベンが突然失踪してしまう。手を尽くして探すが行方不明のままである。残された家族は、それぞれに自責の意識にさいなまれ、絶望し孤独に陥りながら何とか生活を続けていた。そして、ベンは九年後に家族の前にひょっこりと現れるが、彼は家族のことは何も覚えていなかった。他人の子供として生きてきたベンと、失踪させてしまった責任を感じていた兄の心理的な葛藤。喜ぶ親たち。しかし、長い間にわたって、家族のなかでの位置が失われると、いくら血縁がつながっていても関係は切れてしまう。

 家族の繋がりは、血縁以外の純粋な愛情に支えられる。そうなったことは、養子や継子といった血縁のない関係をも、家族に取り込めるようになった。家族関係のとりかたが、大きく拡大したのは事実である。しかし、反対の現象もおきる。血縁が家族だった時代には、どんなに離れていてもまた会ったことがなくても、血縁が繋がっていれば家族だった。だから、突然現れた人であっても、血縁の繋がりを訴えれば、家族の一員として扱った。血の繋がった親戚は、大切な同朋だった。第三世界の映画を見ればわかるように、農業を主な産業とする社会では、現在でも家族の絆は血縁におっている。

 情報社会のいまや、血縁は家族関係を支えない。家族の絆を保証するのが、血縁から純粋な愛情に変わったことは、思いがけなく残酷な現象も引き起こす。それは太平洋戦争の直後に中国に取り残された、日本人を血縁の親とする人たちを見ても明らかだろう。血縁的には日本人でも、何十年もたった日本への適応はきわめて困難である。家族も同様なのだ。純粋な愛情は、日々確認されなければならず、それが確認できない環境が長く続くと、家族関係は消失していくかも知れない。だからこそ、純粋な愛情を維持するには、人々の持続的な作為が不可欠である。人が望むつまり人間の精神活動、それだけが純粋な愛情を生み、つなぎ止め、発展させるのである。

 伝統的社会から工業社会つまり近代へはいるときに、神の支配する自然の秩序が行き詰ったように感じ、人間中心の認識論をたてなければならなかった。農業を主な産業としていれば、土地を信じ、産土の神様にすがることができた。物の生産をめざした近代では神の秩序から、人間の秩序へ転回しようとした。その時に何を手がかりすればいいのか、誰も判らなかった。

 時代は容赦なく進行し、人間の存立基盤を押し流していく。カントはその時に新たな認識論を提出し、それが時代を正確に読めると考えた。彼はニュートンを引用して三つの批判書を著し、近代の認識論の基礎をつくった。線形論が支配したのが近代だとすると、その次は非線形の世界が理解されなければならない。近代が終わった今、線形論から非線形論へ転じた後近代の認識論が切望されている。

 ジョエル・シューマーカー監督は「8ミリ」1999で、観念が現実を領有することの否定的な面を描く。快感を得ることは観念の産物で、肉体を支配するのは観念である。肉体的な行動であるセックスすら、観念がさせるのだ。その観念が拠り所をなくし、自意識が崩壊する。仮想の現実が意味のあるものだと言いながら、現実の快感が欲しい恐ろしさを描いている。

 デヴィッド・フィンチャー監督は「ファイトクラブ」1999で、新たな時代での精神活動を問う。情報社会化している今、肉体労働から頭脳労働へと社会の価値観は急速に動いている。そのため日々の生活からは、肉体的な手応えはどんどんと薄れ、身体への実感が乏しい毎日になりつつある。そうした中で頭脳労働という仕事をする人間たちは、金銭的には充分に満たされても、一種の飢餓感に陥っている。

 主人公のジャック(エドワード・ノートン)は、不眠症に陥った保険会社の査定員である。ジャックの生活は、アメリカ全土を飛び回る日々だったが、その時に会う人といったら、すべて一回限りの人であり、その後には何の友人関係も発生しない。ある時、飛行機のなかでタイラー・ダーデン(ブラット・ピット)にであう。

 タイラーはジャックに自分を殴れと言う。彼は怪訝に思ったが、殴ってみると殴り返され、また殴る。それが意外に爽快だった。二人は殴り合うゲームに生の手応えを感じ、殴られる痛さや流れる血に感動を覚える。今までの生活では決して手に入らなくなったもの、それが殴り合うことによって、痛さとして実感できる。

 男性のジャックにとって、それはたまらない魅力だった。殴り合いは、やがて「ファイト クラブ」となって、多くの男性たちを魅了し、会員を増やしていく。実はタイラーは管理社会に生きるジャックの反面であり、手応えを求めている生の人間ジャックそのものだった。つまり、ここでタイラーとジャックは、同一人物の二面だということが種明かしされる。

 実がうつろになり虚が実生活になってしまった。紙のうえに書かれた数字がすべてである日々。そこには生きるために仕組まれた肉体のメカニズムが介入する余地はない。今日の仕事では、じっと椅子に座って体を動かさない。ただモニターを見つめる目玉と、キーボードを叩く指だけが働いているにすぎない。頑強な肉体などまったく不要で、使われぬ身体は鈍るばかりである。生物の進化の過程で仕組まれた肉体は、今や不要にさえなり始めている。男性たちは自分の肉体を持て余している。

 屈強な肉体を持って生まれた男性たちは、情報社会を前にして肉体の不要化に戸惑い、なんとか肉体の手応えを復活しようとしている。男性たちは「ファイトクラブ」に集い、痛さを求めて殴り合いさえする。男性たちの確かな理性は、数字に支えられた今の社会を認めている。しかし、肉体という原始からの仕組みが、今の社会に欲求不満を示すのだ。だから、本人が無意識のうちに人格が分裂する。

 現代の頭脳労働者は、意識下の意識としての肉体的な接触、つまり痛いという刺激を求めざるを得ない。普通は感じたくない痛さこそ、肉体的な手応えの象徴である。肉体的な手応えが、男性たちに生きがいを感じさせ、自らの存在証明を与える。「ファイトクラブ」は、情報社会を裏側からしかも鋭く描いている。

 屈強な肉体の支配する世界では、女性の登場する場面は少ない。この映画に登場するたった一人の女性マーラ(ヘレナ・ボナム・カーター)は、ジャックの二重人格の受け手として描かれる。ジャックとタイラーの両極端の対応に戸惑い、ジャックへの距離の取り方が判らなくなっていく。欲求不満をもてあます肉体と、虚になってしまった現実との相克に悩むのは、近代の入り口で神を殺し父を殺してしまった男性だけだ。

 女性も「クレーマー・クレーマー」で母殺しの契機をつかんだとはいえ、10ヶ月にわたる妊娠と出産をくぐるために、自然の支配に服さざるを得ない。いまだ女性は、完璧に母を殺したとは言い切れない。そのため、女性は観念ではなく、肉体に生きることが可能なのだ。だから女性は、出産が象徴する自然な女性性、言いかえると母性なるものに寄りかかることができる。観念の世界でもがくのは、男性の専売特許であり、女性はもがく男性の行動に戸惑うことになる。工業社会から情報社会へ転じる今、人間存在はますます自然から離れ、何を手がかりに生きていけば良いか判らなくなっている。その現実に、この映画作者たちは真っ正面から取り組んでいる。

 マイケル・ポーリッシュとマーク・ポーリッシュの兄弟が監督する「ツイン・フォールズ・アイダホ」1999は、シャム(結合性)双生児の話だが、人間の命とは何かという問題に正面から取り組んでおり、きわめて高度な内容の映画である。ブレイク(マーク・ポーリッシュ)とフランシス(マイケル・ポーリッシュ)の二人は、身体が脇腹のところで繋がっていた。そのため、二人は半ば怪物のように見られ、生まれるとすぐに養子に出された。そして成人するまで、サーカスの見せ物として暮らしてきた。フランシスのほうの体が弱り、二人は死期の近いことを悟って、都会へ出てきて帝国ホテルに住まい始める。そして、そこで娼婦を呼んだことからこの映画は始まる。

 暗い画面。ややのろい展開で、二人の動きもぎこちがない。しかし、その鈍さが観客の心の襞に少しずつ浸み入ってくるようで、何とも説得力がある。離ればなれになって、普通の人のように一人で自由に飛び回りたい。分離したいと思った子供時代、二人でいることを覚悟してからの時代、そして、互いにかけがえのない分身となった今。その分身が死のうとしている。生んでくれた母ですら、頭が二つあると化け物のように扱った。ハローウィンの晩に生みの母親(レスリー・アン・ウォーレン)を訪ねてみれば、母親は尼さんの仮装で出てくる。子供を捨てた母親が、尼さんに仮装するのは何という皮肉。

 特殊な人間として普通の社会から弾き出され、自分たちだけの世界に生きたがゆえに、かけがえのない二人。そうしたブレイクに恋心を感じる娼婦のペニー。二人という関係の中でひっそりと生きる彼等と、最低の職業人と見られる娼婦ペニーの優しさ。シャム双生児の片方と恋におちるのは、そう多くはないだろう。だいたい不可分の二人の片方とだけ恋を語るのは不可能である。強固な絆でつながれた二人に、恋人という他者の関係が参入するは至難のことである。キスをしている二人を、息がかかるほど間近で見ているもう一人。しかし、あり得ないかも知れない設定でありながら、心の状況がリアルに浮かび上がってくる。

 身体障害に生まれたら、サーカスなど見せ物になるしかなかった時代。他人の眼に己の不具をさらし、それを生活の糧にする。逆にサーカスという狭い世界に入れば、身体障害でも自活して生きていけた時代。アジールとしての裏の世界があった時代には、差別を甘受することによって障害者も生き延びることができた。個人という観念が存在しない前近代でだけあり得る話である。しかし、平等が建前となった近代社会では、もはやどこにもアジールはない。誰でもが平等な社会とは、厳しい世界でもある。

 時代は女性にも観念に生きることを強いて来始めた。ソフィア・コッポラという女性監督が、家族とそこに生きる子供たちを考えて「ヴァージン・スーサイズ」1999という映画を撮っている。アメリカでは情報社会化が成熟し、新たな社会の方向が見え始めたようだ。切れる子供たちと何かと話題にされる十代だが、管理の強化は肝心の子供を殺してしまうという主題である。この映画の舞台であるリズボン家では、もはや家父長支配はない。フェミニズムの主張どうり、この家の主人は女性である。

 1970年代の反抗に明け暮れた子供たちと違って、現在の子供たちはきわめて良い子たちである。小さな頃から手篤く育てられてきたので、決して親に逆らったり、社会に反抗したりしない。親の言うとおりに生活する。しかし、子供というのは次世代を作るのであり、親という一つ前の世代の意のままにはならないものなのだ。それを親の思うとおりに育てようとしたから、子供たちの自発性は内面化し、内向的になっていった。次に述べる「アメリカン・ビューティ」1999でも、子供が大人と同じように描かれていたが、この映画でも十代はもはや子供ではないと言っている。

 育てるとは補助することである。朝顔を育てると言っても、人間にできるのは水をやることぐらいである。それはどんな生き物も同じであり、小さなときから一緒にいると、親が子供を育てているように感じるが、子供は自分で育つのであり、親は補助者にすぎない。子供にたがをはめ育つ力を削いでしまうと、一見は良い子になるが、途中で枯れてしまう。この映画では、美人揃いの姉妹たちが、全員良い子に描かれている。その良い子が全員そろって自殺するのである。

 自然のなかで子育てができた農耕社会では、子供は次々に生まれ、ばたばたと死んでいった。二〇歳まで無事に成長できたのは、生を受けた命の半分だった。神が命を与えたのだから、子供が育つかどうかは天命に従うのが当たり前だった。しかし、今や命は人間が制御し、生む生まないは人間が決めている。一人か二人の子供を大切に育てる現代、人間は子供を育てられるのだろうか。子供は育つものであって、育てるものではなかったのではないか。人間が人間を育てるなんてことは、神に唾することではないだろうか。一見良い子たちはひ弱に育ち、天寿を全うできない。

 男女混合の兄弟姉妹ではなく、女性ばかりの5人姉妹という設定は、あきらかにフェミニズム批判を内包している。女性は強くなった、社会的に男性と対等になった。それは肯定されるべきだし、歓迎されるべきである。しかし、女性たちの作ろうとしている社会は、どんなものなのだろうか。女性は生理的な肉体のメカニズムのゆえに、男性より自然に近い存在と言われながら、フェミニズムの主張はひどく人工的である。なぜなら、神が授ける命を自らの手の内にしてしまった。性と出産の自己決定権を、女性たちは手に入れた。妊娠・出産という生理的な現象を、自己の意志で決定できる権利を手に入れた。神が作った生命誕生という自然の摂理を、生む権利として女性が行使しようとしている。ところで、産んだ子供を育てることまで、性と出産の自己決定権つまり生む権利という観念が支えてくれるのだろうか。

 近代にはいるとき、人間は神を殺し、自然の摂理を自分のものにした。神より人間のほうが大切なのだ。人間の命こそ、地球より重いものだと言った。しかし、その見返りはたちまちやってきた。二〇世紀は、史上まれに見る大量殺人を犯した世紀だった。情報社会のいま、人間たちは完全に神の支配から離れようとしている。神の創った摂理を、人間が代わって支えるのは、大変な大事である。この映画を見ると、人間が神に代わることの困難さに、女性もやっと気づいたように感じる。男性と並んだ女性は、新たな価値を作ることの恐ろしさを感じ始めている。ここでやっと、男性と女性は真の同行者として、協同体制に入った。

 情報社会化が急速に進む現在、人間が生きるために、神にすがることはもはやできない。この映画でも敬虔なクリスチャンである母親を否定的に描くことで、それは明らかに認識されている。工業社会という近代は終わり、次の時代に入っていることは間違いない。恐ろしい時代が進行している。けれどもそれから逃れることが出来ないとすれば、その中でいかにして新たな理念を生み出し、人間たちの心が安まる環境を作ることが問われている。それはまず映画監督と言った表現者の仕事であり、それを追認するのは哲学や認識論の役割である。

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