単家族的映画論      第2部

現代アメリカ映画における家族像について     2001年3月10日記
 目  次
第1部   核家族だった時代       はじめに
1.輝ける家族像とは 2.叛逆する映画の誕生 3.専業主婦の旅立ち
4.混沌の80年代 5.青春の輝きと家族像 6.女性の青春と自立
7.核家族から単家族へ 8.発想の転換をめざして 9.人間はすべて平等
第2部   映画の舞台は単家族
1.95年は爆発の兆し 2.ゲイ映画の台頭 3.男女が同質の社会を
4.ただ愛情による家族へ 5.新たな秩序の模索 6.女性の自立後とは
7.子供への眼差し 8.純粋な愛情の誕生 9.純粋な愛情の展開
 おわりに
5.新たな秩序の模索
 アメリカの建国は周知のとうり、移民として大西洋を渡ったことから始まり、やがて工業社会へと脱皮してきた。歴史的な背景からか、アメリカ人は自立の精神に富んでおり、自分の身は自分で守ることを良しとしている。それは拳銃の所持などにも現れ、自分自身で自衛する意識が高い国民である。

 治安を守る機構は、地域の警察、郡警察、市警察や州警察、そして州をこえたfbiなど、きわめて複雑な構成になっているが、身近な犯罪はまず地域の警官が扱い、それでも解決できないときに限って広域警察が登場することになっている。これら警察機構は、アメリカの建国にしたがって、長年にわたって形成されてきた。当然のこととして、警察機構はその社会に適合するように組織されてきたし、いままでは治安維持という使命を充分に果たしてきた。

 多くの国の警察は、それぞれの社会に適合した取り締まり規準をもち、法の支配のもとに行動している。アメリカの警察とて例外ではない。農業が主な産業だった時代には、農業が要求する取り締まり規準が用意されていたし、工場ができればそれに見あった法律ができた。そして、それに従って取り締まりがおこなわれる。例えば、工場が存在しなかった時代には工場法など不要だったし、労働基準法は農業と工業では運用がちがうのは当然である。秩序の維持に関しても、各産業社会がもつ特長が反映されている。映画はここでも情報社会のもたらす影響からのがれられない。

 「俺たちに明日はない」が描いた1930年代、アメリカは本格的な工業社会へと突入し、もはや一州内の警察では対応できない事件が多発していた。しかも、それはむきだしの暴力をともなったもので、1970年代のアメリカン・ニュー・シネマはそのあたりをよく映画化している。しかし当時は、まだ正義と悪の境界ははっきりしていた。取り締まる者と悪人は区別がついた。

 工業社会から情報社会へと転じるにつれて、いかに取り締まるかという次元ではなく、取り締まりの根拠それ自体がゆるぎ始めた。つまり、善とは何か、悪とは何か、そして、それはどう裁かれるべきか、といった人間存在についての理念的な問題が問われ始めた。いつの時代にも悪人はいるし犯罪はある。しかし、犯罪のあり方は時代によって大きく違うのである。

 むやみに暴力をふるったり、人殺しをすることはどんな社会でも禁止されている。戦前のギャング映画をもちだすまでもなく、映画もそれは昔から描いている。シェルドン・レナン監督のドキュメント映画「アメリカン・バイオレンス」1981、学生の暴力には暴力でたいちする高校の教師を描いたクリストファー・ケイン監督の「暴力教室」1987、次々と人を殺していくロバート・カーク監督の「殺人マシーン」1988などなど、激しい暴力や残酷な殺人を描いたものなら以前からあった。しかし、こうしたものは正義と悪が明確に区別でき、取り締まる側と取り締まられる側がはっきりしていた。90年代になって現れてくる映画は、正義と悪の境界が不明瞭になってくるのである。

 主婦の自己中心的な正義感が、厳しい善意の忠告やごく些細なミスをも許さない映画は、ジョン・ウォーターズ監督の「シリアル・ママ」1994である。ヒロインはごく平凡な一介の主婦である。彼女は自分の正義感に従って、許されざる人を次々に処刑していく。ジョン・ウォーターズ監督はこの映画で、誰でもが信じていた正義が溶融し、個人の考えがどこまでも正しいとされる社会を痛烈に皮肉ってみせる。

 レンタル・ビデオを巻き戻さないで返却した、年齢不相応に派手な洋服を着ていたなどなど、誰でもやりそうな過ちでも、ヒロインには絶対的に許せない。誰でもが皆平等に大切にされる社会とは、裏を返せば、無数の価値観が自分の正当性を主張して乱立する社会である。個人が自分の主張をどこまでも通そうとしたら、社会の秩序は崩壊し、個人のむきだしの力が支配する世の中になる。

 「誘う女」1995でガス・ヴァン・サント監督は、テレビにでて有名になることが生きがいの女性を描く。主人公の女性は、まず地方局のお天気お姉さんになる。次により有名になることを夢みて、三人の落ちこぼれ高校生に、テレビ出演に反対する夫を殺させる。しかし彼女は、裁判では無罪になり、コカイン中毒のもつれから高校生に殺されたのだと嘘をいう。すると、死者の名誉を傷つけた=家名を傷つけたと、夫の父親が怒り心頭に発し、殺し屋をやとって彼女を殺させる。この映画では、警察などの治安機構を無視して、父親が報復のリンチ殺人を平然とやってのける。

 デヴィッド・フィンチャー監督は「セヴン」1995で、正義感の崩壊を描く。正義の向こうにある悪を憎む気持ちが、かろうじて社会を平穏にたもたせてきた。正義が支配する社会に挑戦し、自分だけが特別な利益を入手する、それが犯罪である。悪を憎み、社会の正義を法によって保つことが、犯人を追いつめ逮捕を正当化する。だから、犯罪の追及が成り立つのだし、刑事は必死で犯人を追うのである。

 堕落し腐敗した現代を嘆き、それに警鐘を鳴らすための殺人から、この映画は始まる。正義を追求するために、犯人は六件の殺人事件を犯す。しかし、この映画は多くの人間が殺されることを糾弾するのではないし、猟奇的な六件の連続殺人が主題ではない。六つの殺人事件はあくまで導入なのであり、取り締まるべき刑事ミルズによってなされる最後の殺人が主題である。正義の追及者である刑事でも、自分の愛する奥さんが殺されたときには、凶悪な殺人鬼と同じように、犯人を殺したいのだとこの映画は言う。怖ろしいことに、この映画が言うのは、それだけではない。

 黒人の相棒刑事に、犯人を殺せば犯人の勝ちだぞと、報復殺人をとどまるように説得されるが、ミルズは射殺してしまう。ここが、この映画の本当の主題である。自分の刑事という立場、今までの自分の言動とのあいだで悩む姿を軽く越えて、犯人を射殺するのは私刑の肯定である。そして私刑の肯定は、今日まで人類の英知が築いてきた、法による正義に対する挑戦でもある。

 アメリカの映画は、越えてはいけない橋を、とうとう渡ってしまった。「シリアル・ママ」では、価値がよるところを失い、正義の実現が一人の恣意にゆだねられる状況を描いていた。それでもまだ特定の人物=狂人という歯止めがあった。「セヴン」では普通の人、しかも警察官という法の番人たる人間に、個人的な怒りの殺人を認めてしまった。工業社会という近代が、かろうじて約束した価値が、今ほころびはじめた。ここでアメリカ映画は、泥沼の相対主義に足を入れた。

 ブライアン・ギブソン監督の「陪審員」1996では、事態はもっと進んでいる。彫刻家でもある女性が、陪審員になれるかと判事から確認されて、熟考の上で引き受ける。それを見ていたマフィアが接近してくる。殺人罪で起訴されている親分を無罪にするために、他の陪審員たちに無罪工作をするよう、彼女と彼女の子供の命をねたに脅迫する。彼女はその脅迫に簡単に屈し、他の陪審員が無罪に投票するように、強力に説得活動をする。彼女の活躍が実り、マフィアの親分は無罪になってしまう。

 アメリカでは、個人の意志が力の大きなものに踏みにじられ、警察や裁判といった制度が個人を救済できなくなっているらしい。工業社会の支配の制度は、情報社会に対応できておらず、自分の身は自分で守らざるを得なくなってきたのだろう。そうした背景が、「セヴン」を撮らせ、「陪審員」を生むのであろう。

 「セヴン」と共通しているのは、犯人を殺すことが犯人側の勝利にもかかわらず、犯人を殺してしまうことである。いつの時代にも犯罪は存在するから、どんな犯人がでてきても不思議ではない。しかし、問題は良識に属する人間が、不可解な行動をおこすことである。「セヴン」では刑事が復讐のリンチをしたり、「陪審員」では主婦が刺激を求めて陪審員になったり、工業社会までの良識が崩れ始めている。制度が人間を守るのではなく、個人としての人間が生のまま社会に放り出され、個人として自立することを要求され始めてきたということだろう。

 誰でもが公平にあつかわれ個人として大切にされる社会とは、個人の嗜好・趣味の如何には、誰も文句が言えないということでもある。女優志願の女性が、テレフォン・セックスのバイトを始めたところ、たちまちその花形になる様子を、スパイク・リー監督は「ガール6」1996で、コミカルに描く。レブ・ブラドック監督の「フェティッシュ」1996は、きわめて個人的な好奇心だけに興味が集中し、全体をまったく見ないという本当に危険な道を歩いている。この映画は、殺人事件オタクとりわけ胴体から切り離された首が、喋るかどうかだけに興味をもつ女性の話である。「誘う女」も、有名病にとりつかれた女性の殺人が主題だったが、心のなかで感心を持つことと、それを現実に実行することとはまったく違う。

 誰の心の中にも、自分の個人的な感心はある。殺人事件に興味をもつ人がいても構わないし、死後の首が喋るかどうかに興味をもつ人がいてもまったく構わない。しかし、現実の行為となったときに、反社会性を持つがゆえに敵対的になる。個人的な興味を満たすためだけに、他の人を殺すことは絶対に許されない。他人の命や社会を無視して行動されるようになると、一体なにが行動の基準になるのだろうか。反社会的な好奇心の実現を、「フェティッシュ」は肯定しているようにさえ見える。

 トニー・スコット監督は「ザ・ファン」1996で、観念が現実を動かすという逆転現象を描いている。プロ野球であっても、選手がいて初めて野球は成り立ち、ファンはそれをとりまく人に過ぎない。しかし、野球がエンターテインメントになるとき、実はファンが野球を支えるのだという。主人公のロバート・デ・ニーロが、仕事からも家庭=子供からも喪失感に責め立てられ、プロ野球のファンであることが彼の生きがいとなっていく。農業が主な社会では観念は現実に支えられていた。しかし、情報社会では、言葉が一人歩きする。それをこの映画は、プロ野球の選手とファンの関係に置き換えて表現していた。観念の正当性はどう確保されるのだろう。

 ミロッシュ・フォアマン監督は自身、ポルノ映画に興味はないだろう。彼は、ポルノの元締め映画「ラリー・フリント」1997のなかで、個人の自由、その重要なものの一つ表現の自由つまりポルノを扱う。表現の自由が大切だとは、誰でもが認める。問題はその中身である。もしくは表現されたものが、その社会の基準と抵触するときである。その時どう判断するかが、本当の判断である。総論賛成、各論反対は、総論反対と見なすべきである。ラリー・フリントのつくってきた雑誌はポルノと馬鹿にされるが、まさに表現の自由の本質部分だった。

 戦争は誰でも嫌いだが、戦争の写真を撮ると時に表彰される。女性器やセックスは誰でも好きだが、それを写真に撮ると猥褻だという。これがおかしい、とラリー・フリントは言う。神様が女性器を作ったのだから、猥褻ではない。神様に創られた人間には隠すべき部分はない。獲物をあさる戦場カメラマンは、ヒューマニズムを隠れ蓑にした禿鷹である。戦場写真はそれがどんなに人間的であっても、戦争を美化している。ラリー・フリントの主張は根底的である。

 表現の自由は、高尚なもののためにあるのではなく、低俗なものが許されてこそ保証される。高尚なものは、その表現が誰にも歓迎され、抑圧されることはない。高尚なものには、いつでも表現の自由は保証されている。表現の自由が必要なのは、低俗なものや反体制的なものにとってである。低俗なものの表現を制限しているところでは、表現の自由はないというべきである。ラリー・フリントは、当時の社会規範を逆なでするように、猥褻な表現に果敢な挑戦を始めた。

 彼は何度も逮捕されたが、粘り強く裁判闘争を続ける。そして、とうとう最高裁までいく。アメリカでも最高裁の判事たちは、我が国と同様に年寄りばかりである。しかしその年寄りたちが、法と良心にもとづいて、画期的な判決を下す。

「パロディは表現の自由に含まれる。公職にある者は、パロディの対象になることを甘受すべきである。表現の自由は…動機の如何を問わず、守られなければならない」

という判決文がでる。15人の裁判官たちは、プライバシーの保護や公序良俗を理由に、表現の自由に枷をはめなかった。表現の自由とは、個人がどんな信条をももてるという自由でもある。

 ジョン・ウー監督は「フェイス・オフ」1997で、顔だけを入れ替えることによって、悪い正義と正しい悪が生まれることを描く。表面的な正義と悪の様相が変わることによって、人間関係が決定的に変わってしまう。悪の顔を持った正義と、正義の顔を持った悪という対比が、正義と悪の構造を鮮明に浮かび上がらせた。

 本来人間のためのものだった正義が、あまりにも抽象度を上げすぎると、正義という観念だけが自己目的化する。正義というマスクを付けた悪人は、正義になってしまう。それを防ぐために、観念の支配に対して観念の自己倒置を認めず、人間の肉体という具体を対置する意見があっても良い。情報社会では観念つまり精神活動が世界を制覇するから、ジョン・ウー監督のアジア的なこの批判は的確である。

 ジョナス・ベイト監督は「ライヤー」1997で、容疑者とか刑事といった立場を越えた人間を描く。どちらが嘘を言っているか、人間がむき出しなる情報社会の半ば病的な心的構造を、ぎりぎりと描いていく。情報社会自体が、精神活動なる観念という虚の上に成り立っている。だから、この映画の設定はトートロジーでもあるが、この映画は虚実の錯綜した新しい観念の世界に入っている。

 ジョナサン・ジェイムス監督の「愛のトリートメント」1997は、癒しのための売春婦を描く。女性が自立し、もはや女性と男性はまったく同等である。そこでは、売春はもはや女性蔑視の仕事ではない。女性の経済的な地位が貶められているから、売春が女性差別の仕事になる。専業主婦という存在が不可欠だったから、経済力のない専業主婦の立場を守るために、売春婦は悪とされたに過ぎない。性の自己決定権を謳ったフェミニズムが、女性の売春を正当化する。女性が自分の自由意志で売春を選び、いつでも辞めることができる職業選択の自由があれば、売春は単なる一職業である。今や売春は、若いときだけだが、高給が稼げる肉体労働である。

 確たる手応えのなくなった現代、誰もが幸福を求めていながら、幸福とは何かがわからない。結婚して専業主婦になり小さな家庭を営むのは、女性にとって最悪の選択になってしまった。自分の人生を、夫という他人に預けることは、危険きわまりない。トッド・ソロンズ監督は「ハピネス」1998で、長く暖かい目で幸福とは何かを考える。女性でも自分の可能性を実現できる、それがアメリカであるとこの映画は言う。ロシア人のヴラッドは途上国の男性の象徴として描かれ、わがままで粗野で暴力的だが、アメリカ人男性の失った野性的な男性としての魅力がある。しかし、アメリカ人のジョイにとって、ヴラッドは危険な人間に過ぎる。

 近代人としてのルールを身につけることによって、男性はどんどんと自然から遠ざかり、朴訥で粗野な魅力を失っていく。都会の生活は、スマートで洗練された人間を生みだす。女性も心ではワイルドに憧れながら、スマートな男性しか付き合うことはできなくなっている。男性も女性も、心の中に個人というプライバシーをもつ時代になった。いくら愛していても、プライバシーという心の核の中に土足で踏み込んでくるような男性は、もはや恋愛の対象にはならない。では心の核とは何か、幸せとは何か。それは今や現実から切り離された頼りない観念に過ぎない。

 誰もに共通の幸福があった時代、幸福幻想であったかも知れないが、多くの人は幸福にすがれたし、幻想の幸福を手に入れて充実した日々を過ごせた。いくばくか過去を懐かしみつつも、もはや戻るつもりのないアメリカ人たち。プライバシーという心の核を知ってしまった人間は、今更それを手放すことはできない。さてそれでは何が幸せなのだろう。自問自答を繰り返す最近のアメリカ人たちは、実に懐が深くなり、人間的な巾がでてきた。こうした映画を見ると、アメリカ人たちが自分をきわめて冷静に見ていることが判る。それは、かつてイギリス人が持っていたシニカルな眼だろうし、豊かな近代人だけがなし得る思考回路である。

 人間の観念が自然の支えを失って、観念だけで自立しようとしている情報社会では、幸福感も同じ運命を辿る。幸福はそれを支える実態を現実社会にもたない。ただ心の中にある充実感とか達成感といったものが、人間に幸福感を与えるだけで、それは幸運な錯覚に過ぎない。錯覚でしかないけれど、それでも人間は幸福を求めている。「青い鳥」は心の中にいるのだとは、近代の入り口で喝破されている。それがより広範に、より徹底的に知らされる時代になった。

 マーク・ペリントン監督は「隣人は静かに笑う」1998で、プライバシーと犯罪について描く。隣人たちとの接触が希薄になり、隣は何をする人ぞの世の中で、地域の防犯力が下がっている。地域共同体が崩壊すれば、個人個人の生活がそのまま社会に並立するだけで、相互監視機能もまた同時に崩壊する。この映画では、個人の前歴を調べるのは、プライバシーの侵害だと何度も言っていた。プライバシーなる概念の登場自体が、個人の自立と対になって生まれたことである。過度のプライバシーの保護は、凶悪な犯罪を許してしまう温床になりかねない。

 しかし、凶悪犯罪を撲滅するために、地域共同体的な絆を復活することは、共同体が持つマイナスの面をも復活させてしまうことである。共同体はとはコネが幅を利かせ、身分や性別といった人間の属性が支配する社会である。そこでは、低い身分に生まれたものは、一生にわたって下積みの生活を強いられる。そして、子供たちは用役の対象とされ、大人は50歳が平均寿命である。共同体の復活をやれば人間の移動が減り、自然の拘束が人間を強く包み込む。自然の支配が強固になれば、情報社会の個人の精神活動は停滞する。古き良き時代への懐古は、知的な能力への期待に反することになる。個人をより自由に浮遊させなければ、情報社会での豊かさは維持できない。にもかかわらず、個人化すればするほど、犯罪も多くなるジレンマからどう抜け出すのか。

 ピーター・ウィアー監督は「ザ・トルゥーマン・ショー」1998で、虚実が転倒した社会を描く。トルゥーマンはテレビ撮影のセットのなかで生まれ育った。彼の毎日はすべてテレビで放送されている。彼の生活は、すべてフィクションのうえになりたっている。観念だけが人間の人間たる所以になった。それは一連のアメリカ映画が展開してきた。純粋な愛情つまり観念は、放置されたらどう育つのか。それに対する解答がこの映画である。虚実が裏表であるといった映画は、今までにもあったし、想像するのはそんなに難しいことではない。しかしこの映画のように、人生を丸ごと虚の世界に置くことは、想像力の大変な飛躍が必要である。

 「ザ・トルゥーマン・ショー」が主張する人間に対する本質的な信頼、これこそ今後確保していかなければならない。人間はそのまま育てられれば、自由を求め、独立を指向するのだ。これが今までの人間の歴史を振り返ったとき、導かれる結論である。逆説的な存在にありながら、人類は進歩してきた。自然の掟に反して、よりよい生活を実現してきた。こうした人間に信頼を寄せることなくして、これからの展開はない。今後、インターネットが一層普及することが予測される。情報社会での、新たな秩序とは如何なるものだろうか。

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