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オーベルハウゼンのギムナジウムを卒業後、大学で薬学と哲学を学ぶが、画家を志望して中退。1966年10月パリに渡る。しかし、美大の試験に落ち、モンパルナスでアメリカ人の芸術家ジョニー・フリードラ版画を学ぶ。この時、シネマテーク・フランセーズに通いつめ、多い日は1日に5本、最終的に1000本以上の映画を観る生活を送っていた。翌年ドイツに戻って、ちょうど設立されたhff(ミュンヘン映画・テレビ学校)に入学し、hffで学ぶ傍ら映画評論家として雑誌、新聞等に多数の映画評を執筆する。 1970年にニュー・ジャーマン・シネマと呼ばれるムーブメントの核となる制作・配給会社フィルムフェアラーク・デア・アウトーレンを14人のドイツ人監督と共に設立する。1976年ベルリンにロードムービーズ・フィルム・プロダクション設立。 |
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