タクミシネマ                    百一夜

百一夜    アニエス・ヴァルダ監督

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百一夜 [DVD]
 映画の歴史を体現した人物=百歳のシネマ氏(ミッシェル・ピコリ)の求めに応じて、映画が好きな若い女性カミーユが話し相手になる形式で話は進む。
アニエス・ヴァルダ監督の映画に捧げる賛歌である。

 アラビアンナイトの千夜一夜物語のように、映画の歴史上の様々な話題が、四話にわたって展開する。
一話一話がすべて連続しており、古い映画の話をしているうちに、有名な俳優が登場して、古い映画とオーバーラップしながら物語は進む。
マルチェロ・マストロヤンニやアラン・ドロン、ジャンポール・ベルモント、カトリーヌ・ドヌーヴその他、数え切れないほど大勢の有名俳優が、短いカットながら少しづつ画面に顔をだす。

 この映画は、映画の歴史として見れば理解できるが、エインターテインメントとしてみるとおもしろくない。
貴重な古いフィルムを使いながら、その並列に終始しており、新しい話を組み立ててない。
だから、年齢の行った人には懐古的な楽しみがあるかもしれないが、体験を同時代で共有していない人間には、画面への共感が湧かない。

 カミーユのボーイフレンドが映画狂で、彼女は映画をつくるための資金稼ぎのバイトとして、シネマ氏の話し相手をはじめる。
そのため、シネマ氏とカミーユの話だけではなく、カミーユとボーイフレンドの関係がもう一つの話として展開する。
シネマ氏の遺産相続人である息子が失踪していることがわかると、彼等の仲間でインドから帰ったばかりの仲間を息子に仕立てる。

 彼に遺産相続させ、映画作りの資金にしようとするが、カミーユは途中で監督志望のボーフレンドからこの男性に乗り換えてしまう。
ボーイフレンドの映画制作のために一肌脱いだカミーユが、いとも打算的に行動する。
この変化の必然性が観客にはわからない。
ボーイフレンドが頼りないととか、監督としての才能に魅力を感じなくなったという説明がないのである。

 マルチェロ・マストロヤンニが生きていた最後あたりに作られたと思われるが、すでにフランス映画は迫力を失っていることをここでも感じた。
1994年の作品だとあるが、のろい話の運び、おそらくフランス人にだけ通じるのだろう常識、狭い美意識など現在のフランス映画が持つ欠陥をすべて内包している。
部分的には美しい場面もあるが、それが全体と連動しておらず、何が訴えたいのか伝わってこない。

 アニエス・ヴァルダ監督は年齢のいった人だと思うが、懐古趣味による映画は全くおもしろくない。
年をとってもブニュエルのように、新しいものを作り続けた人もいるのだから、年齢の多寡が問題なのではない。
年齢と共に問題意識が現実から離れ、自分の内部にだけ留まるようになったとき、他人との共感を回避するようになる。
それが若者だと、そんなスタンスでは映画を撮らしてもらえないが、老人だといままでの財産があるだけに映画が実現してしまう。
こうなるともう老害である。

 巨匠とか大家といった言葉がついた映画は、よほど注意して見ないと、懐古趣味につきあわされることになる。
退屈な映画だったが、未来を見据えていない映画制作の姿勢が、根本的に迫力を欠くもとになっている。
1996年フランス・イギリス映画。


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